その後暫くそんな感情と共にその様子を見ていたが、やがてツォンは体調の悪さを訴えるようになった。仕事のしすぎじゃないかなどと周囲に言われたものだが、それは絶対に違うとツォンは分かっていた。今までそんな例はない。多少の無理など何でもない。

ただ、少し疲れているだけだろう。

そう思って、それでも何となく医務に行ったらば……例の薬を出されたのである。

精神安定剤、その薬を。

二度目にその薬を口に放り込んだ後、ツォンはそっとベットの中に入り込んだ。しん、と身体に染み込む冷たさが何故か心地良いような気がする。寒い夜には迷惑なこの冷たさも、今日は何故かそう思わなかった。

やがて密閉された毛布の中が体温で満たされた時、やっと目を閉じる。

それから、考えていた。

少し前まで自分の立場すら忘れて犬か何かのようについてきた例の人の事を、考えていた。実際にその人が自分に何かを言う場合は命令口調であったし、自分はそれに対して迷惑極まりないとまで思っていた。ただ、そうして硬い口調で物を言う割には行動が稚拙だった。さも当然そうな顔をしての物言いなのに、その中身といえば空洞で、結局掘り下げればいつも、我侭の上にそれらの言葉を口にしていたのである。

仕事の話など簡潔に終わらすべきである。

それを食事を伴ってまでする必要性はどこにもなかった。

思い返せばそれは食事だけに飽きたらなかった。帰りもそうだ、待っているから少し出かけようなどと何度か言われたがそれも無視して帰ってきたし、その他のプライベートの時間も何かしら連絡があったりした。

そんな様子を知っていたからか、レノなどの仲間はすっかり勘違いをしてしまっている。ツォンがルーファウスと仲が良いというように。しかしそれは勿論妙な話だったし、仲が良いなどという言葉自体嫌気が差す言葉だった。

まとわりつく、空気。

本当にそんな感じだ。

ツォンはそれなりに拒否の姿勢を続けてきたが、ルーファウスには一向にソレが伝わらなかった。というよりも、諦めなかったという方が正しいだろうか。

そういえば以前にもこんな事があったななどと思い、その内容を振り返ってツォンはやっとその状況が何であるかを理解したのである。

昔、女がそれと同じ動作をしてきたことがあった。それは遠い昔の話で、最近では思い当たるふしの無いものではあったが、確かにそんな事はあった。女の執念というやつなのだろうか、とにかく自分の感情を押し付けたがる。

好きだと言われるのが嫌なわけでは勿論無かったが、それにしてもそういう輩のとる行動といえば最低だった。

愛情の押し売りというやつだろうか。

好きだから全てが許されると思い込んでいるのだから幸せな人間達だと思う。ほぼ社会的な行動とはかけ離れた非常に利己的な行動をし、そしてさも当然そうな顔をして近付いてくる。愛しているのだから、愛されるのは当然だとでもいうように。それほど馬鹿らしいこともないだろうとは思っていたが、それらを完璧にシャットアウトしてきたツォンにとってはそれほど大した苦労は無かった。

そんな過去と、ルーファウスの視線や行動は、とても良く重なる。

だからそう…ルーファウスは、ツォンが認めない種のことを利己的に進めてきたことになるのだ。例えそれがルーファウスの中でどんなに正統な理由をもってして行われたことであろうと、同じレベルで同じ感情を欲しがる必要性も何も無かったツォンにとってそれは、単なる重荷でしかなかった。

閉じた目の中で、何となく腹立たしくなる。

視線も、誘いも、全て無くなってしまえばどんなに楽だろうかと思っていた。それはずっと考えてきたことだった。

でも――――――。

でも今はどうだ?

それがやっと叶ったというのに。

ルーファウスが何故そうしてツォンから離れていったのかは良く分からない。分からないけれど、それは間違いなくツォンにとっては好都合のはずだった。

それなのに、この苛立ちは一体何なのだろうか。

まんまとツォンから離れたルーファウスは、今は別の人間にお熱であるらしい。その相手が相手だったが、ツォンを追うよりかは随分とマトモだと思う。

そう――――――優しい人間の愛情にでも溺れていればいい。

ヌルイ愛情に漬かって、溺れて、這い上がって来れなくなってしまえば良いのだ。

存分に媚を売れば良い。

愛情をあげるから、愛情を与えてくれ、と。

「……」

―――――――けれど。

そう思う端では、どこかとても深い怒りが沸いてきていた。

あんなにも追い回した挙句に放られた自分という存在が、あまりにも滑稽に見えて。

 

 

 

止められない感情が、いつの間にかツォンを支配していた。

 

尻尾を振る犬のように、愛情をくれる人を選んでいくあの人。

駄目だと分かったら、今度は別の背中を追う。

そんなふうに選んでいくあの人。

自分が傷つかない為に。

自分が愛されればそれで良かったのだ、そうに決まっている。

一度愛した人間でも自分に振り返らなければ意味が無い。利益も無い。

それだけでもう、そういう人間は不必要なモノと化す。

“アフターケア”、そんなものはどこにも無い。

 

たったそれだけの真実。

そんなものは、この世には腐るほど溢れている―――――……。

 

 

 

食事に行こうと過去に何度か言われたことのあるツォンは、ほぼ奇跡に近いことに、自分からその人を食事に誘った。かの人はお熱であるらしい人物と食事の約束でもしていたのか、少し戸惑ったような顔をしたものの、結局はその誘いに良い返事を返す。

昼食では安心していられないから、夕食。

ゆっくりと。

そう考えて夕食をと誘ったツォンは、人が込み合う金曜の夜にその人を乗せた車である店に向かった。

その店は夜はバーになる少し落ち着いた雰囲気の店で、大衆居酒屋とは遠くかけ離れている。ゆったとした音楽、小気味良いグラスの音…その中で飲む酒は心地良い。今までその店にツォンは誰一人として連れてきたことがなかった。まさかルーファウスを連れてこようなどとは間違っても思っていなかった。

それがこの日、どういうことかツォンはこの店を選んだのである。

カラン、と音を立てて開いたドアの先には、白熱灯のムードある空間が広がっていた。その中で奥の方の席を選ぶと、ツォンはルーファウスに「どうぞ」といって席につくように案内する。ルーファウスは突然このような行動に出たツォンを不審には思っていたが、それでもそれを顔に出さないようにすると、言われたままに席に腰を下ろす。

ツォンもその後に向かい側の席に腰を下ろし、いつも自分が頼んでいるものを適当に頼んでから、少し落ち着いた様子でタバコなどに火をつけた。

煙が上がる中で―――妙な雰囲気が生まれる。

表情の硬いルーファウスを見ながら、ツォンは少し口元を緩めて、

「楽になさったらいかがです?」

そんなふうに言った。

「ああ、そうだな」

そう答えたものの、ルーファウスの表情はかたい。シガレットケースを出したまでは良いが、それに手を出そうとはしない…つまりまだ構えている状態。

それはそうか―――こんな非常事態では。

少しして頼んだものが運ばれてくると、二人は乾杯もせずにそれらに手を伸ばした。大体において無意味にグラスを合わせる乾杯行為すらないのは、二人の心の距離を顕著に表しているようにも思える。しかしそれを口に出すようなことはしない…それはルールだから。

少し間をおいた後、ツォンはやっと本題に入るように口を開いた。

「どうですか、私との食事は。…望まない食事はつまらないでしょう?」

挑発的なその口調に、ルーファウスは顔をしかめる。

「…何故そんなことを言う?」

「“何故”?面白いことを聞くのですね、貴方は。貴方だってかつては私に同じことをしたではありませんか」

それは昼食でしたがね、そう言いながら笑うツォンを、ルーファウスはじっと見つめている。確かにこんな空間は以前にも存在はしていた。それはまるで遠い過去かのように感じられるけれど。

「最近は誰か他の方と食事をされているそうですね」

「…悪いか」

いいえ、別に、そうツォンは普通に答えると、

「むしろそちらの方が貴方にとっては良いでしょう。…有利、とでも言いましょうか」

と続けた。

その言葉の羅列は、どういう事を伝えたいのかルーファウスには良く分からなかった。

ツォンに視線を投げかけていたことを、ルーファウス自身も忘れたわけではない。だからこうして二人で食事をすることは悪いことではなかったし、ある意味では喜ばしいことなはずなのに、ルーファウスにはその真意は良く掴めない。

店のムードはとてもよいが、この区画だけ妙な雰囲気が固まっているかのようにも思える。

ルーファウスはその状況に硬くなったまま、どうしたら良いのか考えあぐねていた。

ツォンという人が、今では良く分からない。

だから。

「一度…貴方に聞いてみたかったんです。貴方の口からはっきりと聞いてみたかった」

突然そんな言葉を口にしたツォンは、ルーファウスの視線を捉えたまま、ゆっくりと次の言葉を口にする。

「貴方は―――私をどう思っていたのですか?」

その答えは、ツォンには既に分かっていた。

しかし、ルーファウスの口からしっかりと聞いたわけではなかった。ただ言動でそう判断してきただけのことで、証拠はない。

今この答えをルーファウスの口から聞くことは、ツォンにとってはその証明と、そしてこれからに関しての判断をするためにとても必要なことである。

ただでさえ妙な苛立ちを覚えるこの頃の自分には……必要。

ルーファウスはその答えをどう口にしようか迷っていたようだが、少し考えた挙句にこんなふうに回答した。

「お前は…頼りになる部下、だ」

―――その回答を聞いて、ツォンは内心笑い出しそうになった。

“頼りになる部下”?

頼りになる部下をこまめに食事に誘い、更に熱い視線を送り、プライベートまで侵食する…それが上司なのか。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。

何故本当のことを言わないのだ、そう思うとツォンはまたもや苛立った。

「では聞きますが、今この状況と、少し前までの状況と、全く一緒だと言えますか?」

「どういう意味だ、分からないな」

「分からない?」

そうか、そうだろう。

きっと分かりはしない、今のこの人では。

生温い愛情に溺れてそれにご満悦なこの人には―――分かるはずも無かった。

己が苦しみながら愛情を注ぐより、誰かの愛情に溺れ快楽を得ることの方が余程楽だと知ったこの人には、きっと分かりはしない。

「―――よかったですね。分からなくなるほど、愛されていて」

ふっと笑って、ツォンはそんなことを口にした。

ツォンの視界では、少しづつ表情が強張っていくルーファウスが映っている。

多分――――その言葉だけで全てが通じているのだ。

的確でリアルな言葉でなく、抽象的で霞がかったそんな言葉でも、お互いにそれが何を指し示すのかは通じている。

 

 

 

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