VIOLETT PREIS

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そんなに愛されていないことくらい、知っていたんだ。

ただ少しだけ、夢を見ていたかっただけなんだ。

だけれどその夢すらも見れないほどに声は聞こえるから―――――…

 

 

 

目を怪我したのは、もう数日前の事。

出先でのちょっとしたハプニング、しかしそれは事を大事へと発展させた。

元を正せばそれは何でもないただの転倒で、その理由といえば疲労だった。最近睡眠もまともに取っていなかったな、そう思いながらの会議への出席だったから、なるべく早くに切り上げようと思っていたのだが、当日になれば当日になったでそうもいかなくなる場合もある。

その日もそんな具合にそういかない事態になって少しばかり遅くなると、ストレスも加担されたのか段々と眩暈すら感じるようになった。

これはいけない―――――そう思って、さすがにもう切り上げよう、そう思った時のこと。

席からすっと立ち上がったその時。

ガタン、そう音がして視界が舞った。

一瞬何が起こったのか理解できなかったが、どうやらそれは自分の体が平衡感覚を失い転倒をした、という事態であった。それだけならまだ良かったのだが、不幸にもその転倒した先には角の尖った置物などが綺麗に並べられており、まさかと思った瞬間にはその角に目を打ちつける状況になっていたのである。

多分、悲鳴を上げた。

あまりに瞬時に走った痛みの為、我を忘れて裂くような悲鳴を上げたと思う。

しかしそれから先は眩暈の影響もあってかあまり記憶にない。ただ、気づいた時にはもう既にベットの上で、そのベットの脇にはあの忌まわしい科学部門統括の姿があった。

科学部門統括の宝条といえば、功績こそ称えるものの人間性の面からすればかなりの猜疑を隠しえない人物である。とはいえ実際に何かをしたかといえばそういうわけでもない。ただ疑いをかけるには十分な要素たる雰囲気を醸し出す男であることは確かだった。

そんな宝条が、目覚めたベットの脇にいた時、ルーファウスは咄嗟に思ったものである。

―――――――何だか嫌な予感がする、と。

別段何かしらの確信があるわけでもないし、さすがに副社長の身であるルーファウスに何かおかしなことなどしないであろうが、それでも唐突にそこにいた宝条に関してはどうしてもそう思わざるを得ない。

そして、そんなルーファウスの予感は大体のところ当っていた。

ベット脇で目を覚ましたルーファウスの視界は勿論のこと片方だけで、機能していたのは右目だった。左目はそれ特有の眼帯が付けられていてどういう状況なのかが分からない。視界が無いのである。

ともかく目に損傷があったことだけは確かなのだから、そう思ってルーファウスは納得してみたものだが、問題はその目が今後治るかどうかという点だった。あのとき走った痛みを思えばそれは相当な損傷と見ても良いと思う。そう思うと、最悪の場合それは失明という可能性も考えられるわけで、生活できないというわけではないものの、多少今までから比較して不便にはなるだろう。

ルーファウスが知りたいのはそういった事だった。

本来こういうのは医者か何かが知っていそうな話なのだが、何故だかそこには宝条しかいない。常からそれほど懇意というわけでもない宝条しか。

だからルーファウスは、もしかしたらこの男がそれについて何かを知っているのかもしれないと踏んで、まずはその点についてを口に出した。

白いベットの中で。

「私の眼は、これからも機能するのか」

端的に、そして一番知りたいところだけを抜き出してそう聞いたルーファウスは、無事である右目でもって宝条を見遣った。

宝条は白衣を身に纏いながら後ろで手を組み合わせていて、その体勢のままにルーファウスを振り返る。そうして、彼らしい無表情でこう言った。

「するわけがない。左は失明した」

「―――――」

やはりそうなのか、思ったのはそんなことである。

最早驚きだとかそういうものよりも、納得とそれに続く落胆の方が大きい。

こうなってしまった今、何故あの時あんなことになったのか、とか、どうしてこんな不幸が訪れたのか、とか、そんなふうに思うのは後悔先に立たずである。無論本来ならそういった心情が表れるのが当然なのだろうが、この時のルーファウスにはそういう気持ちは欠如していた。多分それよりも、では此処からどうするのか、という事が頭にあったからだろう。

しかしそのルーファウスの疑問への答えを出すように、宝条はこんなことを言った。

「…だが安心して良い。眼帯を取った下には、“新しい目”がある」

「なに…?」

新しい目。

それは一体どういう事なのか。

「右だけで物を見続ければ負担がかかる。そうなると視力も悪くなる。目が見えないようじゃ仕事に差し支えるだろう?…そこで新しい目を入れた。クク…多分それは最高の眼に違いない。今迄以上の眼だ」

「――――待て。その新しい目というのは、その…お前が?」

「勿論だ。何か異論が?」

「……いや」

宝条が入れた――――――新しい目。

何だか嫌な予感がする。この目前の猜疑を隠しえない男が入れた目など、普通の眼ではないに違いないのだ。しかしそう思ったところでそれを非難するわけにもいかず、それを取り払えというわけにもいかない。要するに、それを受け入れるしかない。

ただ、とにかく何か嫌な予感がした。

「眼帯は一週間ほど取らぬように。では、私はこれで」

宝条は無表情のままにくるりと背を向けると、急くでもなく一歩づつその場を離れていった。そうして宝条の姿が完全にその部屋から消えたその時、ルーファウスはそっと眼帯を手で触れた。

新しい目が、そこにある。

 

 

 

その日からルーファウスは、暫くの間眼帯をつける生活を送っていた。その眼帯は清潔感を思わせる白などではなく、どこか厳しい調子の黒をしている。

全体的に色素の薄いルーファウスの体の一部にその黒い眼帯があることは、何だか妙にそれを浮き立たせるようであった。

そうしてほぼ三日ほど過ぎた頃だろうか。

日頃の多忙でそれほど会うこともなかったツォンと、久々に逢瀬の時間を取ったりする。

当初は、目を怪我したことでもう少しこういう時間は後にしようかとも話し合っていたのだが、体調自体は悪くもないし大した問題はなさそうだった。それに、眼帯をつけているとはいえその下にはあの宝条の入れた新しい目がある…それを思うと何だかどこか落ち着かず、だからこそツォンと会って少しばかりの安堵でも得たいというのがあったのだ。

だからルーファウスはその日、自らツォンと会うように約束を取り付けたのである。

ツォンはといえば、勿論の事ルーファウスの眼のことを心配していたが、それでも会いたいというその言い分には拒否などしなかった。

そうして迎えたその日――――――それは久々の夜で。

久し振りだから豪華に食事でもしようといって、滅多に訪れない最上級のコースを堪能する。それはホテルの最上階で、食事の後には最高級スイーツなども堪能した。

ホテルは高層ビルのようになっており、一階にエントランスと高級な喫茶店、二階からは長々と客室が続いており最上階にレストラン、という構造になっている。だから食事を済ませたらそのまま下に下り、客室に止まるというのがこのホテルの利用者の行動だった。

その夜の二人の行動もそれに外れてはおらず、食事とスイーツが済むと、そのまま数階下の客室に降りていく。それは予めルーファウスがリザーブしたものだったから、特別面倒な手続きは要さない。但し、アルコールの注文だけはしなければならなかったが。

そうしてやってきた部屋の中。

クラシック調の穏やかな雰囲気に、綺麗に整えられたベット。

床まで届く窓は、まるで世界を見渡せるかのような夜景を二人に示している。

「綺麗ですね」

上着をパサリと落としながらそう言ったツォンに、ルーファウスは一つ頷き、ああ、と返答した。

「但し片目分しか見えない事が少し残念だな」

「ああ…そうでしたね。失礼しました」

「いや、別に。お前が謝ることじゃない」

気にするな、そう言いながら笑ったルーファウスに、ツォンは困ったふうな笑いを返す。

どうも自分が言ってしまった言葉がいまいち許せないらしい。

「…それで。目の方はどうなんですか?」

動かぬままにそう問うたツォンは、どうやらルーファウスの眼がどういう状況にあるのかを知らないようだった。その様子を見てやっと、そういえば何一つ説明をしていなかったという事を思い出したルーファウスは、簡潔に事の次第を説明する。

左は失明をした事、そうして今この眼帯の下には宝条の言う新しい目があるという事。

そして、この眼帯ももうすぐ外しても良いのだという事。

そういった事を簡潔に失明したルーファウスは、だから、もう心配はないのだということをツォンに告げた。多分ツォンは、そういうふうに説明を添えて言わなければ納得などしないだろうから。

ツォンはそれを聞いてやっと納得したかのような表情を浮かべると、

「でしたらもう左も見えるのですね」

そんな事を言った。

確かにツォンが受けた説明からすれば、新しい目が入ったのだから“見える”と思うのが当然である。いや、実際に見えるのだろう。

しかしルーファウスは、未だにその新しい目で物を見たことがなかった。

何故なら、宝条は一週間は眼帯を取るなとそう言っていたからである。

だから、まだ一度もその新しい目を見たことがない。物を映したことがない。

「…まだ、何かを見たわけじゃないんだ」

ルーファウスは少し間を置いてからそんなふうに言うと、目前のツォンをそっと見遣った。その視線を受けたツォンは、え?、という顔をする。

それを見て、ルーファウスは少し視線を反らした。少し気落ちした顔で。

「眼帯を外すなと言われて…まだ外していないんだ。黒い眼帯などどうかと思ったけどな」

「何か問題でもあるのでしょうか?」

「分からない。ただ、何となく―――――恐くないか?」

「恐い?」

眼帯をそっと左手で触れたルーファウスは、その手の中でそっと左目を動かした。

手ごたえはある。この目は生きていると、そう感じる。

だから何も恐いことなどないはずなのに、それでもこの目があの男の手によるものだと思うと何だか得たいの知れない恐さを感じる。

この眼帯を取ったら…どうなるのか。

「ルーファウス様」

ふっと背後にツォンの気配を感じたルーファウスは、体勢をそのままに視線だけ背後に回すふうにして、眼帯を押さえていた指をそっと外した。

その中で、ツォンの腕がそっと伸びてくる。

伸ばされた手は脇の下を通り抜け、そして―――――眼帯に触れた。

「恐くはないですよ。私が、います」

「……」

左目にかかる僅かな熱。

それを感じながらルーファウスは、

「…そうかもしれないな」

そう返した。

けれど本心はどこか腑に落ちないものを覚えており、それは恐怖というには小さいものの、それに近いものを心の底に蔓延させた。

「ルーファウス様…」

そうツォンが名を呼ぶのを耳で感知した時、同時に左の眼の当りに違和感がやってくる。何だ、そう思った瞬間にはもう脳はそれが何であるかを認識していたらしく、それはどうやら約一週間ぶりに“視界”というものを得たという感覚だった。

左の眼が―――――――見える…。

「あ…」

すうっと広がった視界は、正にワイドビューの夜景だった。

それが今、確実に見える。見えて、それが何であるかも感知できる。

まるですっかり元に戻ったように。

「ツォン…見える、全部。もう大丈夫だ…何も無かったみたいだ」

驚きか感動か、若しくは恐怖なのか、呆然とした様子をそのままにルーファウスはそんな事を口にした。あんまりにも久し振りなその視界に、すぐにツォンの方を向く事ができない。

ツォンはそんなルーファウスの様子を背後から窺いながら、嬉しいといった様子の声音で、

「月並みな言葉で心苦しいですが…良かったですね。本当に、良かった」

などと言う。

それから、ルーファウスの体を己の方へと誘導しながらこう続けた。

「どうか私にも見せて下さい」

ルーファウスの体はツォンに誘導されるままに動き、そうして二人は向き合うような体勢になる。それはツォンにとって、しっかりと両目を持ったルーファウスを見る久々の瞬間だった。

―――――が。

「なっ…!」

新しい目を得たルーファウスのその顔をみた瞬間、ツォンは声を上げた。

その表情は、驚きの色を浮かべている。

「?…何だ、どうしたんだ?」

一体何が起こっているか分からないルーファウスは、そんなツォンのリアクションが純粋に分からないといった調子である。先程まで宝条が関わっているということで悶々としていたものも、久々の視界によって一気にどこかへと押しやられてしまったらしい。

しかし、そんなルーファウスもさすがに驚きを隠せなくなってしまった。

何しろその新しい目は――――――――…。

 

 

 

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