背中

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思いっきり甘えた猫撫で声。

愛しさを丸裸にしたような瞳。

そういう術は知っている。

そういうのを使うときは決まって、背中を見るときだ。

俺のつけてる香水がべっとり付いたから、それを取り払おうとして背中を向ける。そういう時の為にこうした術は必要なんだ。

事が終わって、煙みたいにシャワーを浴びようと去っていく背中に、まだ熱の残るベットの中で蹲っている俺は、わざと声をかける。

「そんなに心配か?」

意外とすぐに反応は返るものだ。だから俺はすぐに背中を見ないで済むようになる。

振り返って「別に」と素っ気無い返事が帰っても、俺は甘えた声と愛しさの溢れた瞳を武器にする。

「大丈夫だ。少しくらいの残り香なんて、誰も気付きやしない」

そうだ、ましてや夕食の匂いのある家の中では。

俺をじっと見て、冷ややかな態度でいるのは、ツォン。

俺はこうして何度もツォンの背中を見ては振り向かせ、時間を稼いでいる。武器を使って、最後の悪あがきをする。

でも大抵それは崩れるものだ。

だからほら、今日もそれは例外なく崩れ去る。

「別に―――――習慣だから浴びるだけです」

俺はそれを聞いて、なるべく穏やかに笑みを漏らした。

 

 

 

世の中では、俺とツォンのような関係を不倫だとかいう言葉で呼ぶ。

道ならぬ恋といえば聞こえは良いが、それほど純粋なものでもない気がする。だから俺は倫理に反した行為という解釈で構わない。

ツォンが特定の女と婚姻関係にある男でも、俺に相手がいようとも、俺はそれで構わない。その特定の相手から気持ちが離れたわけではなく、これはほんの興味の一つ。

遊びというほど楽なものでもないが、本気というほど真面目なものでもない。

勿論、障害は多い。

例えば一番の障害は、お互いに相手がいて、その相手にバレることなく逢引をすること。これは意外と難しい。残り香を消そうとするツォンは、それを一番に気にしてるわけだ。俺はその辺りを特に気にする必要はない。何故かといえばそれは、俺が常に誰にも縛られていないからだろう。

例え残り香を漂わせて誰かに会っても、それを非難されて悔いるほどの束縛は一切無い。ツォンのように喚かれることもなければ、法的な心配も無いのだ。

だから、楽。

ツォンは俺のことなど考えない。考えられない。考えたらそれだけで浮気というレッテルを貼られて、不幸まっしぐらだからそれは仕方無い。

でも俺は考える。

ツォンのことを考える。

考えても誰も文句など言えないし、俺が不幸になることもない。だから俺は、俺の相手と共にいようとも、ツォンのことを考えたりする。でも不思議と思うのは、そうして考えてもそれは恋のように純粋な思考ではないということだ。

俺が考えるのは体外、ツォンの背中だった。

それはきっとツォンの背中が俺の記憶に焼きついているからだろうと思う。俺はその背中を見る時に一番気を遣う。気を遣って武器を振るう。だから一番集中力と演技が必要になる場面といっていいだろう。そういう瞬間はなかなか日常にはなくて、だから俺はその瞬間が結構気にいっていた。勿論、ツォンは嫌いだろうけれど。

「何を考えているんですか?」

そう問われて、俺はふっと我に返った。

我に返って隣を見ると、そこにはリーブの姿がある。リーブは昔からのクセでよく俺の髪を撫でたりするが、それは今でも抜けないらしく、その時もそんなふうにしていた。

こうされるのも、嫌いじゃない。

でも劣るんだ、あのツォンの背中には。

「別に」

俺は答えて、髪に触れるリーブの指を絡め取る。そうしてからそれを唇で触れると、柔らかく舌でなぞった。

リーブは苦笑している。

「誘わないで下さい」

「別に。誘ってるわけじゃない」

単にこれは欲求の一つ。この後に何をしたいというわけでなく、今この瞬間にこうしたいから俺はそれをするだけだ。けれど大概それを誰も理解しない。長年俺の側にいて、こうして触れたりするこのリーブでさえそれは理解できない。

だから、俺の行動をリーブは愛の動作と勘違いする。それが積み重なれば、その後は想像通り、架空の愛情の成立。けれどそれは俺にとっては何かを期待して行うものではないから、そこに束縛はない。期待はしないから、だから恐れも無い。

リーブは俺の口元を眺めながら半ば目を閉じた。

指の先は意外と感覚が鋭いものだ。舌で包み込めば、少しは欲求も膨らむ。勿論これは俺の言うところの純粋な欲求ではなく世間一般のありきたりな欲求のことだ。

聡明な男でも、罠にはまる。

「そんな詰まらなそうな顔をして…それでも誘うんですね」

そう言って俺の首筋に顔を埋めたリーブに、俺はすっと微笑んだ。

詰まらなそうと分かっているくせに罠にはまるリーブの方が俺には随分とおかしく見える。そう、俺はこの瞬間など楽しんでいない。欲求に素直に指を咥えるまではまだ良いが、それを超えると、例え相手が誰であろうと同じことだからだ。それでも多くの人はそれを最後と定める。最終的な目的は身体あり、更にはそれを愛情と勘違いする。

腹部の辺りに隙間風が当たり俺は、リーブが欲求に素直に行動を始めたことを知った。その動作を見ながら、相当俺は冷静なのか、徐々に興奮が冷めていくのを感じていた。

これ以上いったら、俺のいうところの欲求は、世間の言うところの欲求に飲まれて姿を消してしまう。だから俺はそれをただ客観的に眺めるだけ。

例え性感帯からの刺激を受けても、心のどこかでは冷めた自分がいる。

その自分は、外部から身体への刺激に素直に息を荒げる自分と、スマートに事を運ぶリーブを、見下すようにして黙っている。

誰がこれを愛情と定めた?

俺はそんなものを感じたことは、一度としてない。この生温い体の重ねあいの中でも、優しげな言葉の端にさえ。

ただ欲求だけが存在し信頼できる感情だ。それは勿論、あのツォンの背中を目の当たりにした時に感じる興奮が最高峰であって、それ以外は最早レベルの低いものでしかない。

俺は、リーブを見ていた。

薄く開けた目の中からリーブを見て、思っていた。

リーブは何を思い、今、この身体を抱こうとしているのか。

ここにはあの危うげで甘く脆い感覚など存在しないし、引き裂かれる心配すらない。つまり、甘すぎる毒もなく、辛すぎる毒もない。こういうのを得てして平和と呼ぶのだろうが、そんなものは最低だろうと思う。

静かな水面など単なる観賞用だ。波紋が起こることによって風景は鮮やかになる、動きを見せる。つまり平和でありすぎると、人は堕落する。堕落して安穏すぎる時間を壊したいという衝動にかられる。

だがリーブのような男は特別なのかもしれない。この男は多分、観賞用の水面で十分欲求を満たせるのだろう。

だが俺は違う。

そして、ツォンも違った。

波紋を起こしたのは私だけじゃない。

ツォンもまた、自ら平和の殻を壊したのだ。

 

 

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