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理想郷 --------------------------
指先で、そっとなぞる輪郭線。 あの頃より少し細くなったような気がする。 黒い瞳の奥に宿る光は、少し鈍くなったような気がする。 変わらないものはきっとあるはずなのに、それでもそこには何か変わってしまったものがあるような気がした。 「…逃げようか」 答えは分かっていたが、それでもルーファウスはそう口に出して聞いてみた。 今見上げているツォンの顔が、どこか歪んでいくような気がする。 そしてその口元が僅か揺れて、言葉を告げた。 「今の貴方には、できるはずない」 とても辛辣な言葉ではあったが、ルーファウスがその言葉に嫌な反応を返すことは無い。もう既に分かっていたのだ、そう言われることくらい。 「…そうだな」 だから、正直にそう頷いてみる。 確かにそうだ。自分は捨てられるはずないのだ、今という状況を。全ての責任が、今自分にのしかかっているのだから。 ちょっとしたこの時間に期待をするのは、馬鹿げたことだと思う。それでも頼ってしまうのは、過去にできなかったある判断の為。 まだ自由だった頃に、できなかった判断。 それが今、こうして結果を生み出す。 その結果とは、もしかしたら一生のものとして手に入るかもしれなかった愛情を暫時的なものに変えてしまったということである。それは今更後悔しても仕方ないことだけれど、ずっと胸の中でつかえていた。 「そういえば前はお前がこの言葉を言ったんだったな」 俯いて笑うと、そうポツリと呟く。 “逃げましょうか” そう言ったのはツォンだった。その言葉をツォンが口に出すことは、ひどく勇気のいったことだったに違いない。それでも、あの頃―――――――それに頷くことなどできなくて。 今ならできるかもしれないと思っても、もうそれは、遅い。 ツォンという人間と僅かな愛情を分かち合う時間は、だからルーファウスを落胆させていた。とても嬉しいと思うのに、その反面、とても落ち込む。 あと一秒でも側にいようと思っても、それもまた落胆の要因でしかないのだ。 今こうして抱きしめ合っていたとしても――――――――数秒後には他人に戻ってしまう。期間限定の恋人。いや、それとも単なる慰め合いなのか。 けれど、本当に悲しいのはそういう事じゃない。 ツォンと暫時的な関係でしかないことは悲しいことでもあったが、それよりもっと悲しいのは自分自身だろうと思う。 そう、今さっきツォンが言ったように、自分はきっと“できない”から。
私は、ツォンの為に全てを捨てることは、できない――――――――。
愛情が本物であったとしても、それができないのだ。 本当はそれが、一番、悲しかった。
それはある冬の話。 同じ歳の人間が詰め込まれることのないような知識を頭中に押し込められて、ルーファウスが少々ばてている頃の話だった。 春から就任という話だったので、自由にできる最後の時間といってもいい。その時にルーファウスは、最後だからと色んな場所に息抜きといって出かけていた。 しかし何処にいっても春からの自分の姿が付きまとう。これでは休む意味すらない。 そんなルーファウスの最後の自由時間に、護衛としてツォンがついてきていた。 ツォンとは昔から仲が良い。 仲が良いというのは語弊があるかもしれないが、ルーファウスはそう思っていた。少し歳の離れた兄のような存在であるツォンは、一部の人間からすれば少し厳しい面もあったが、大体はルーファウスの話を良く聞いてくれる。 だから、そんなツォンが好きだった。 神羅の人間はそれなりに話をしてくれはするが、基本的に勤務時間内に会うために、それほど深く耳を傾けてくれるようなことがない。その他の人間といえば、家の使用人だとかになってしまう。彼らは確かに優しいが、それはあくまで主人に対しての態度である。同じくらいの歳の人間はといえば、側には存在していなかった。 何せ、大体の住宅密集地からプレジデント宅は離れていたから。 「春から…何だか自由が無くなるみたいな気分だ」 宿泊している部屋の窓辺で、無意識に意気消沈したルーファウスが呟く。 午前中は色々と見て回って、さて午後からは場所を移そうか、というその合間の時間。基本的に人にはついてきて欲しくないといったルーファウスの意見を重視して、プレジデントは唯一ツォンだけを護衛につけた。本当ならそれなりに護衛を仕事にする人間がいたのだろうが、それではルーファウスが嫌がるのは目に見えていたから。 ツォンなら嫌がらないだろう、そう思って二人だけの旅となったのだ。 何をするでもなく、ただルーファウスに付き添っていたツォンは、時折見せるルーファウスの憂鬱な顔に、なるべく厳しい顔を向けていた。 プレジデント神羅がルーファウスに護衛を幾人もつけようとしたその理由は、正にそれだった。入社を目前にしているルーファウスが何かしでかさないかを見張れ、それと共にそれなりの自覚を養わせろ、という具合である。 前もってそれを聞いていたツォンは、それなりにその言葉を実行していたが、やはりそれも時々崩れるときがある。神羅カンパニーという以上にルーファウスには頼られているからか、どうしても同情心が抜けないのだろう。 「大丈夫ですよ。多忙の中にも休日はありますし」 とはいっても、本当はあって無いようなものだ。そう心で苦笑いを漏らしながらもツォンは慰めるようにそう言った。 「違う、そういう意味じゃない。会社に入ったら、いつも見張られてるみたいな生活になりそうじゃないか」 それが嫌だ、そう言いながらルーファウスは大きなベットの脇に力なく座る。 もう何回か同じ会話をしていたが、それでもまだ足りない気がしてしまうのは、多分不安だとかが抜けないせいだろう。それを前にして息抜きなんて、本当はできるものじゃないのかもしれない。だから、この息抜きの旅の実際の意味は、愚痴の隠し場所といったところだった。 「ツォンは…嫌になったことは無いのか?」 「私が?」 問われて、ツォンはルーファウスの隣に腰を下ろした。そして、少し考えてこう口にする。 「無い…とは言いきれませんが。けれど口に出すべきことではないです」 「辞めようとは?」 「辞める?…まさか、そんな」 そう返したものの、実際はそれも先ほどと同じ回答だった。辞めようと考えたことが無いわけではない。でもそれは多忙から逃げようということではなく、もっと大幅な理由からである。 部外者として見る姿と、実際の姿が違うこと…そういった事は決して少なくない。未来の期待があるからと入った場所が、実際にはそれと正反対のことをしていても、それは珍しいことではないのだ。 しかしそれは、今のルーファウスに説明できるものではない。 「神羅はそんなに良いものか?」 ツォンがそう返したことで、ルーファウスは少し訝しそうな顔でそう聞いた。 「どうでしょう、それは春になれば自ずと分かるものですよ」 「…何だか全部、曖昧な答えばかりだ」 ちゃんと答えないなんて、とぶつぶつ文句を言いながらも、ルーファウスは腕などを組んでいる。それを見ながらツォンは、やはり苦く笑った。 答えたくても、答えられない。 それが本心だったから。 もし此処で本心を言えば、それは今回の付き添いの意味を失ってしまう。といって完璧に本心を隠すことを、同情心は阻む。だから、この状況はツォンにとって少し辛いものだった。 暫くして腕を解いたルーファウスは、気持ちを切り替えたように息をつくと、午後の予定についての話をし始める。どうせこの話は堂々巡りでしかないのだから、いつまで話していてもキリがないのだ。しかし、数分後にはきっとまた同じ会話をするのだろうと、ツォンは思っていた。
午後、湖畔に出向いた。 何ということもなく、ただただ静か。その静寂の中で、周囲に広がる景色を見つめながら風を感じている。 滅多に人が寄り付かないというその湖は、綺麗というよりかどこか淀んでいたが、それを帳消しにできるくらいに心を鎮める効果がある。それは静けさでもあり、そしてあまりにも緑豊かなことでもあった。 水面を見つめたルーファウスが「水深はどのくらいだろう」と言ったのに、ツォンは「かなり深いそうです」とだけ答える。 「こんな水面下にも何か棲んでるんだろうな」 水はいかにも濁っているけれど。 「そうですね」 「濁った水の中でも生きられるもんなんだな」 何となくその言葉に反応して、ツォンは静かに呟くような言葉を漏らした。 「…生き物はそんなに軟では無いのでしょう」 そのツォンの言葉を口に出して繰り返したルーファウスは、先ほどの部屋での会話をぶり返すようにこう切り返す。 「ツォン、本当に辞めたいと思ったことがないのか?」 突然そんな話を振られて、ツォンは驚いたように目を開いた。先ほどはそれなりに躱したはずだったことを、まさかまた同じように振られるとは思ってもみなかった。ルーファウスの愚痴ならまだしも、こうも質問されると困ってしまう。 仕方無い、そう思って苦い笑いを見せると、 「…ありますよ」 と、ツォンは本心を告げた。 それを聞いて、どういうわけかルーファウスは怒ったような顔つきになる。先ほど、嘘といえないまでも本心と別のことを言った…それを怒っているとは思えないが、それでもその顔は本気そのものだった。 しかも、こんなことを言う始末である。 「あるなら。何で辞めないんだ」 「何で、といっても……」 理由ならいくらでもある。辞めたいと思った契機が一つであろうが、それを決断できない理由は様々だった。 生活するため、ある程度の地位に就いたため…理由はいくらでもある。 が、それをルーファウスに言ったところで、彼にその全てが把握できるのかどうかは分からない。ルーファウスには基本的に生活的な苦しさは無いし、地位についても申し分ないものが用意されているのだから。 しかし、そんなふうに違う次元にルーファウスを置いてしまうのすら、何か嫌悪感を覚える。羨望とか、劣等感があるわけではないが、事実は変えようがないのだから仕方無い。 「色々、理由はありますよ」 結局また曖昧な言葉で返答したツォンは、もうその会話を続けまいとして顔を背けた。が、ルーファウスはそうはさせてくれなかった。 食い下がるように、こんなことを言い始める。 「ツォンは勇気がないだけじゃないか!そんなのは理屈だ。辞めたいなら、辞めればいい。何でそうやって、仕方無いとか思うんだ」 「ルーファウス様…」 そこそこ歳の離れたルーファウスにそんなことを言われるとは思ってもみなくて、ツォンはただ苦笑した。けれどルーファウスがそういう事を言える理由はよく分かっている。 それが言える次元にいるのだ。 年齢的にも、身分的にも、時期的にも。 一瞬、その違いについて説明でもしようかと思ったが、それほど大人気ないこともないか、と思い、ツォンは思いとどまる。 きっと一時の不安感がそういう言葉を吐かせるのだ。 そうに決まっている。 そんなふうに解決させて、もうそれは良いではないですか、と宥めの言葉を送ってみる。しかしそれも気に食わなかったらしいルーファウスは、 「お前がそういう事を言うな!」 と怒鳴るように言葉を投げつけた。 それは何だか突拍子もない言葉だったが、ルーファウスにとっては大事なことだった。意味を図りかねたツォンが明らかに不審そうな顔をすると、ルーファウスはもう一度同じ言葉を繰り返す。 “お前が”とは―――――――――…一体、どういう意味なのか? そう思ったがそれを追求せずにいると、ルーファウスはふいと違う方向に顔を背け、もう良い、と言った。 「お前はこの湖の底でだって生きられるんだな」 そんなふうに零したルーファウスの横顔は、どこか寂しげに見えた。
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