ここにいる

---------------------------------

 

 

初めて口付けを交わしたときのことを覚えている。

ほんの少し試すみたいに言った言葉に期待をかけていた。それでも、きっとそんな事をこの部下は受け入れないだろうと思っていた。

けれど、思いがけずその部下は首を縦にふるようにそれを受け入れたのだ。

貴方にそんなふうに思って頂けるなんて光栄です。

彼はそう言っていた。ごく真面目な顔でそう言った。

だから、少し嬉しかったのだ。

例え、その人がその人自身の意思で手を伸ばしてくれなくても、それでも嬉しかった。

寂しいから一緒にいていいかと聞くと、その人は、どうぞ、と言った。

たまにはキスしたいなと言うと、その人は、少し困ったような顔をしてキスをくれた。

そうしてほんの少しの時間だけ、恋人になれる。

大概の時間は何も無いように過ぎていってしまうし、その人が自分に言葉をくれることもなかったけれど、それでも少し嬉しかったのだ。

勿論、もしかしたら今でもまだ片思いなのかもしれないと思うこともあった。ちょっとくらいの相手と、そう見られているかもしれないと思うことも。

でも、自分の気持ちは変わらなかったから、だからその生活に不満は無かった。

ほんの少しの時間だけでも、たった一秒でもそうあれば、それで良かった。

そうして緩やかに過ぎる日々の中のある日、その人はこんなことを言い出したのだ。

宜しかったら、ウチにいらっしゃって下さい。

そんなふうに何かを貰ったのは、初めてだった。物だろうと言葉だろうと、何だろうと良かったのだ、彼がくれるものなら。

そうして初めて貰った言葉で、彼の家についていった。

他愛無い会話などをして、何となく寄り添って、初めて身体を重ねあう。そうしてその時やっと感じられたのだ。もしかしたら、自分が思うよりも此処には気持ちが詰まっているんではないだろうかと。

髪を梳き、頬を撫で、額にキスをして、彼は言った。

ずっと、此処にいてくれませんか。

それはとても常識外れな言葉だったに違いない。世間からすれば確実にそうだったろうが、それは初めてその人が見せた真摯な欲求だった。

だから、喜んで受けようと、そう思ったのだ。

他でもない、その人の言葉だったから。

その生活は、誰も知らぬところでひっそりと続けられていた。自分の家になど、帰ろうとは思わなかった。帰っても一人だけの家でその人を想うよりも、その人の側にいることを、選んだのである。

初めて家事というものをして、何度も失敗した。けれどそれも苦にはならなかった。

こういう時は、こうすれば良いですよ。

そう隣で教えてくれるから、それが少し嬉しかった。

そんな些細なことが、嬉しかった。

 

 

 

家に帰る時間はお互い違っていた。大体の時間をルーファウスは把握しているはずだったが、神羅を出てからはさすがに把握できない。

ある時期になって、ツォンは帰りがやけに遅くなった。仕方なく、スペアキーでドアをあけて帰宅を待ってみるものの、全くそんな気配が無い。

その内、眠気が襲って寝入ってしまう。

朝になると、やはり姿がないのでそのまま出社する。

神羅に着くと、ツォンの姿があり、おはようございます、と挨拶をされた。

どうやら、いつの間にか帰宅をして、いつのまにか家を出ているらしい。それはそれで何か事情があるのだろうと思って何も聞かなかったけれど、そういう事がずっと続くと、さすがにルーファウスも気になってくる。

どこに行っているのだろう。

ずっと此処にいて欲しいと言ったのは、やはり気まぐれだったのだろうか。それともそんな生活には飽きてしまったのだろうか。

どちらにしても少し寂しいと思う。

そんなふうに思い始めたある日、帰宅すると珍しくツォンがいたので、ルーファウスは少し安心して嬉しくなった。

けれど、今まで感じていたものを拭いきることもできず、こう聞いてみる。

「最近、遅かったじゃないか。どこに出かけてるんだ?」

その言葉にツォンは少し動作を止めた。そして、真面目な顔つきになってこう言う。

「…それを言ったら、貴方は此処にいてくれないでしょう」

「え?」

「誰しも人には言えないことが一つや二つはある。…貴方なら、分かって下さいますよね?」

「……」

何となく、それ以上を聞くことはできなかった。

 

 

 

ある日、ルーファウスが珍しくタークスのところまで訪ねると、そこにはルードしかいなかった。ツォンとレノは仕事で出ているという。イリーナは体調が悪いといって医務で休んでいるだとかいう。

「ツォンとレノは一緒なのか?」

「…いや。ツォンさんは別口の事に関わっていて、それを…」

「別口の?…何の仕事だ?」

ルードは詳細を知らないようだった。ただ、以前の仕事で見つけた情報が関わっているという。それはその時には重要視されるようなものではなかった。それなのに、ツォンはそれをまだ調べているらしいとルードは言った。

「…随分長引いているし、危険な事なのかもしれない…」

「危険…」

まさか危険とはいっても、命を奪われるようなことはないだろうと思う。彼もまたプロなのだから。

けれど、その情報はやはりルーファウスを不安にさせた。

そんなことをしているとは知らなかった。もしかしたら、夜が遅いのもその仕事をしているからなのかもしれない。

けれど、それが何かを聞くことはできない。何せ、どこにでかけているか、と聞いても答えは貰えなかったのだから。

そんな不安を持ちながら、ツォンの帰宅はやはり遅いままで、緩やかに日々は過ぎていった。

 

 

 

同じ家に住んでいても、顔を合わせることが少なかったので会話もマトモにしていないような気がする。神羅内でもそれほど頻繁に会うわけでもない。ルーファウスも自身の仕事があったから、それが忙しくて帰宅が遅いこともある。

ルーファウスがこの家に留まると決まった時、ツォンはベットを一つ購入した。元々家は綺麗で、使われていないような部屋が一つあり、そこを自由に使って良いといわれたけれど、ルーファウスはあまりそこにはいなかった。寝室だけが一緒で、帰っても寝るくらいなので、ほぼそこだけが使用される。

そのベットにごろんと横になり、壁につけられていた時計を見遣る。

時間はもう12:00を過ぎていた。ツォンはまだ帰ってきていない。

今日も話せなかったな、そう思いながら目を閉じる。

もしかしたら、このままずっと同じ状況が続くのだろうか。そう思うと寂しいけれど、元々少しの時間だけでも、恋人になれればそれで良かったのだから、仕方ないのだと思う。

此処に一緒にいれるだけでも、嬉しいことなのだから。

そう思い、うとうとし始めた頃、遠くで物音がした。どうやらそれはドアの開く音だった。その音の後に、静かな足音が響き、それは段々と近付いてくる。

うとうとしながら、帰ってきたのかな、と思う。

やがて寝室に光が漏れて、その足音は止んだ。

それでも目を開けられずにうとうとしていると、やがて顔にスルリ、と何かの感触があった。それから少しして、唇に温かい感触。

それは、少し外の匂いを含んでいて、冷たかった。

その後に、髪を撫でられる感触がした。

それは何だかとても気持ちよくて、優しかった。

 

 

 

家で久々に顔を合わせたその日、ルーファウスはやはり少し気になってツォンにこう聞いた。

「神羅を出た後も、仕事してるのか?」

どういう内容かとは聞けないけれど、それくらいなら聞いても良いだろうと思う。ルードは、危険なのかもしれないと言っていたし、何だかそれはやはり不安だった。

「……」

「やっぱり、それも言えない事なのか?」

それでもツォンは何も言わなかったので、ルーファウスは、答えたくないなら良いんだ、と言った。無理をして聞きだすのは何だか嫌だった。

そんなルーファウスに、ツォンは突然こんなことを言い出す。

「負担ですか?この家にいるのは…」

「え…」

「この家にいると色々不安になるのでしょう、今の話のように」

ルーファウスは驚いた。そんな事を言われるとは思わなかった。此処にいて欲しいといったのはツォンの方だし、それは勿論嬉しかった。だから、此処にいるのに。

「出ていけ…って事か?」

「その方が宜しいなら、そうされた方が」

「…ツォンはそれで良いのか?」

だったら、やっぱりあの言葉は気まぐれだったのだろうか。そうだとしたら、とても悲しいと思う。話せなくても、会えなくても、一緒にいると思えるのは、此処にいるからだというのに。

良いという言葉が返ってきたら嫌だなと思っていたけれど、ツォンの答えはそうではなかった。

「いいえ。私は貴方が此処にいてくれたら嬉しいと思ったから、此処にいて欲しいと言ったんです。けれどそれで貴方が不安になるのは望ましくありません」

「不安なんか…」

無いとは言えなかった。でも、あるといったら此処にはいられない気がする。どちらにしても、ツォンは何も教えてくれないだろう。

「不安なんか無い」

結局そう返す。きっと、本心は見抜かれているのだろうけれど、それよりも此処にいることの方が大切だった。

「良かった」

そう言って、ツォンはそっとルーファウスを抱きしめる。何だかその感覚は妙に久し振りな気がして、ルーファウスは思わずドキッとしてしまう。

「安心しました」

「…そうか」

「私には価値が無いから」

「…価値?」

何でいきなり、と思ってルーファウスは身を離した。何だかそれは、言われたこちらの方が悲しくなる言葉のような気がして。

そんなふうに突然離れたルーファウスに、ツォンは苦い笑いなどを漏らし、それから、さきほどの言葉をこう言い直した。

「私には、貴方を此処に留めておくだけの価値は無い。本当なら」

「何で?」

「そんな大層な人間ではないから」

「…そんなの、私が決めるものじゃないか。…もっと自分を信じれば良い」

そうですね、そう言ってツォンは立ち上がると、何か淹れましょうか、と言って歩き出した。何だか中途半端な気がしたけれど、それはそれ以上触れないまま終わってしまった。

 

その夜、本当に久々に抱き合った。

事が済んだ後、それでも離れずにいると、ツォンはルーファウスを見つめてこう言った。

「我侭は承知です。それでも…何も聞かずに此処にいて下さい」

何も聞かずに、不安にならず、という意味で放たれたその言葉は、いかにも分が悪い気がする。けれど、意味があることは、此処にいるということだった。

「駄目ですか?」

本当は聞きたいことは沢山あったけれど。でもルーファウスはツォンにこう返した。

「分かった」

ずっと此処にいる。

そう返すと、ツォンはとても優しく笑った。だから嬉しかった。

でも、本当は少し悲しかった。

 

 

back next