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遺書 ------------------------
遺書を書こうと思う。 遺書を。
弁護職という不思議な職を生業としている男を立ち合わせて、ルーファウスが遺書を書きはじめたのは一ヶ月ほど前の事だった。 遺書などというものはどこか不吉な匂いを漂わせている。 勿論、時の権力者などといわれる人間にとってそれは必要不可欠というくらいのものであるが、ルーファウスはまだ遺書を書くには早いようにツォンは思う。 ルーファウスは今、世界を再生する大規模な組織の要人である。 かつてのように表舞台に出ることはなくなったが、それでもその組織の資金面で重要な役割を担っているわけで、その点からすればまだまだこれから頑張らねばならない存在なのだ。無論本人も、それを自負している。 それなのに何故こうして遺書などという不吉なものを書きはじめたのか、それはツォンにとって不思議でならない出来事だった。ルーファウスは何故そんなことをし始めたのかという点についてツォンに一言の説明も加えなかったし、それどころか遺書を書きはじめた事自体ツォンには知らされていなかったのである。 だからツォンは、その遺書の存在を弁護職の男から初めて聞き知ったのだ。 ある時期から突然やってくるようになった不審な男は、いかにもビジネスの用途で出向いているのだというふうな風貌をしていたものである。だから最初それは、あの大規模組織に関連している男なのだろうと思っていた。だからこそツォンは、その男に一礼をするだけで話しかけるということはなかったのである。何しろあの組織に関連する人間となればそれはルーファウスの客人ということになるのだから。 しかしその男があまりにも頻繁に訪れるものだから、ツォンはある日とうとう話しかけるに至ったのだ。勿論それは素性を問うようなものではなく、本当に些細なきっかけに過ぎなかった。 ある雨の日。 その男は傘を持っているにも関わらずレインコートを纏っていた。 そのレインコートはあまりに雨に濡れていて、雨の雫が床にポロポロと垂れていた。 それが何だか気になって、ツォンは思わずその男に進言したのだ。 “レインコートをお預かりしましょうか” ルーファウスと話をしている間に乾かしておいたら良いだろう、そうしたら帰りにそれを着る時にも寒く無い、そういう良心から言ったその言葉に、男はすっと笑って首を横に振った。 “いいえ、結構ですよ。お気遣いありがとうございます” 男はポタポタと雨の雫が垂れているレインコートをそのままに、ルーファウスの待つ部屋へと姿を消していったものである。普通で考えればそれは非常識極まりないものだったが、ルーファウスは何も言わなかったし、その男も特に何か気にしている様子など無かった。 それが何だか不思議で、その男が帰る間際、ツォンはこんな事を聞く。 “また、いらっしゃるんですよね?” もう何度も見かけている男にその質問をするのも何だかおかしかったが、再度雨の日があったら今度こそレインコートを預かろう、そう思ってツォンはそんな事を口にする。 そんなツォンに、男は静かに頷いた。 “ええ、遺書が書きおわるまでは” “遺書?” その突然の言葉に、ツォンが驚いたのは言うまでもない。 今迄考え付きもしなかったその言葉はツォンの胸に突き刺さり、そしてにわか雨のように不安を落とした。 “遺書…というのは、その…ルーファウス様の?” “ええ、そうです” “そう…ですか” ――――――――ルーファウスが遺書を書いている。 その時、ツォンは初めてその事実を知った。 ルーファウスから齎されることもなく、ただその弁護の男の何気ない言葉によって。 “私は弁護の職をしている者です。ではまた” その男はツォンの驚きをよそに、レインコートをそのままに、そっとその場を去っていった。それは何だかあまりにも静かで、何故だか遺書の存在に信憑性を持たせるような気がしたものである。 そんな事があってから半月ほど経ったが、ツォンは未だにルーファウスの口から遺書の事実を聞いたことがなかった。もしかしたら、聞けば教えてくれるかもしれない。そうとも思ったが何故だか聞く気になれない。きっと、ルーファウスが遺書などを書いているという事実が“現実になる”ような気がして厭なのだろう。 だからツォンは、その事実を知りながらもルーファウスの前ではその事を一言も話さずに過ごしていた。ただルーファウスの傍にいて、その人の下す令の一部をこなして、時には一人きりの時間を過ごして。
―――――――そんな日々が過ぎて、数ヶ月。 とうとうツォンは、ルーファウスの口から遺書の存在を聞くことになった。 それは、ある雨の夜のこと。
恋人というのは不思議な存在だと思う。 人によってその存在の在り方は様々だが、ルーファウスとツォンに関していえば不思議というのがぴたりとはまっている。 二人は、組織図など存在しない不思議な空間の中、過去ある組織でそうであったように上司と部下という間柄を継続していた。そして、過去そうであったように恋人という間柄をも継続していたのである。 世間でいう恋人がそうであるように、愛している、というような言葉などあまり使ったことがない。お互いの愛を口にするよりも仕事の話や世情の話をすることが多かったし、身体など重ねることもなかった。キスくらいはした事もあったが、それは尾をひくようなものではなく挨拶程度のキスである。 お互いのことにはさして干渉もせず、相手の事を全て知ろうとすることは暗黙の了解でいえばタブーそのものだった。だからお互いのことは未だあまり知らない。その上、一緒にいなければならないとか一緒にいたいだとかいう感情も出されることはなかったから、一緒にいる時間そのものもあまり多いとは思えなかった。 ルーファウスはこの関係について、かつて不思議なことを言っていたものである。 “精神的伴侶だ” その言葉を聞いた時、不思議だと思ったが、しかし逆に成る程とも思った。 精神的伴侶の対義語は身体的伴侶である。身体的伴侶とは恋人ではなく夫婦といわれる関係それである。しかし結婚などというものが出来ない二人にとって身体的伴侶というのは無縁の関係であるから、確かに精神的伴侶と言う事が出来るだろう。 面白いのは、恋人ではなく精神的伴侶という言葉をルーファウスが使った事。 それが指し示すのは、ルーファウスの望んでいる事が「恋人という刹那的な甘さ」ではなく「半恒久的な安定」であるという事実だ。 しかしその恒久的な安定を求めるには、二人はお互いの事を知らなさ過ぎた。お互いの事を話さないのだし一緒にいる時間もあまり多いわけではないのだからそれは当然だが、それでもルーファウスの中では恒久的な安定というのは実現されていたらしい。それが証拠にルーファウスは不平など漏らさない。 そういうルーファウスにツォンは疑問を持つことも少なくなかったが、その関係がこうも長くなるとさすがにそれにも慣れてしまった。だから今ではそれなりに納得してこの関係を続けている。 相手を知らない上で安定を求めるという事は、相手に何も求めない事だ。 つまり、相手を想うという自分の気持ちだけを安定させれば良い。 それを恒久的に持ち続ければ良い。 それこそが、相手の情報を持ちえずに相手との安定を継続させる方法だとツォンは理解している。但しそれは、言葉で言えばあまりにも簡単なのに実行するとなればあまりにも難しいものに違いなかった。 こういう関係では相手に何かを求めるのは普通のことだし、それは気持ち一つにしても「求める行動」に分類されるものである。それでも何も求めずにいるという事は、相手が自分を愛しているという確 認すら無いままに過ごす事だった。 これはまるで、片想いに似ている。 相手を知らずに精神的伴侶となるには、片想いを恒久的に持続させなければならない。 愛されているという実感は相手から齎されるのではなく、自分自身の中から齎されなければならない。 そういう、不思議な関係。
雨の夜、珍しくルーファウスに呼ばれたツォンは、傘を手にルーファウスの自宅となっている場所まで出向いた。 仕事とは別に所有しているその自宅は、以前とは違い簡素である。 勿論一般の人間からすれば多少豪華だったが、それでもそれは広さの問題だけであって外見上は簡素としか言い様がない。色味も地味だし、全てが木材で出来ている。 多少温かみのあるその家に足を踏み入れたツォンは、ルーファウスに勧められるままに居間に置かれている大振りなソファに腰掛けた。以前の家にはあった高尚な絵画や壷などはすっかりと見えなくなり、その部屋に見えるのは柱時計だけである。 昔ながらの柱時計だな、そう思いながらツォンはその秒針を眺めた。 チク、タク、と音を鳴らしながら一秒ごとにカタンと揺れる秒針はいかにも硬い調子で、スムーズというよりどこかギクシャクとした動きをしている。 そんな秒針と分針とがⅫの文字にやってきた時、柱時計からはボーンボーン、という音が鳴り響いた。低く厳しい感じの音である。 「時間になったな」 その音が鳴り響く中、どこかへと姿を消していたルーファウスがツォンの前に現れた。見てみるとその手には小さな盆があり、その盆の上には小奇麗なカップが二つ並んでいる。どうやらルーファウスは飲み物を注いでいたようだ。 「この前、客人に貰った茶葉だ。何でも健康に良いんだそうだ」 そう言いながらツォンに一つを差し出したルーファウスは、自分の分のカップを取りツォンの隣に腰を下ろす。そうして早々にもそれを一口啜ると、 「尤も、健康なんて望んでいないけどな」 そう言った。 そんなふうに言うルーファウスを見ながらツォンはある事を思い出す。それは、例の遺書の事である。 健康なんて望んでいない、そう言うルーファウスは、どういう気持ちで遺書などを書きはじめたのだろうか。もしかすると健康を害しているという状況なのかもしれないが、その部分をツォンは知らない。 「それで、今日は何か特別な話でもおありなので?」 ツォンは健康に良いというその茶を口に運びながら、今日こうして呼び出されたその用件についてを切り出した。 口の中に俄か、茶葉特有の苦味が広がる。
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