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いくら温室育ちとはいっても、まさかホテルなる物体を知らないなどとは誰が考えたであろうか。いや、誰も考えなかったに違いない。 しかし実際ツォンの眼の前には、天然記念物のようにそれを知らない、という人間がいた。これがもし、利用の有無という意味で知らないというのならまだ頷けるのだが、どうやらこの人はその存在自体を知らないらしい。…考えられない。 しかしそんな人がそれに興味を持ち、更にそれは何だと聞いてきたからには、ツォンはそれがどういうものかというのを逐一説明せねばならなかった。 しかし考えてもみて欲しい。 一体何が悲しくてホテルがどんなものかを説明しなければならないのか。ホテルといったって普通のホテルではない、あのホテルなのだ。 これを説明するとなると、それは酷く難関だった。 まず第一に、目的を口にするのが躊躇われる。そのものズバリを言うのも難だからといってオブラートに綺麗に包み上げてそれを説明したツォンだったが、その途端に質問の嵐にあい、結局綺麗なまま終わることはできなくなってしまった。 愛を育む目的で、なんて言った瞬間にアウト、である。ルーファウスの切り替えしといえば…。 「“愛を育む”ため?何でそんなところにわざわざ行く必要があるんだ?」 …あまりに尤もな意見で反論もできず。 「いや、ですから…その。何と言うか…自宅ではそれが遂行できない場合が無きにしも非ずな訳で、そういう時にですね…」 「何で?自宅では遂行できないなんて事ないだろう?」 「いえいえ、それが大人たるもの事情の一つや二つ…」 しどろもどろになりつつも何とか答えを返しているツォンに、ルーファウスは純粋に首を傾げた。一体何故自宅ではいけないのかがさっぱり分からない。そもそも愛を育むならば自宅で然るべき、という具合。 「…変だな。だって愛を育むってことはつまりアレだろ?」 「あっ…アレ!?」 心臓が飛び出そうな勢いでそう聞き返すツォンの前で、ルーファウスは口をもごもごさせる。しかしそれもすぐに解けると、こんな事を言い出した。 「つまり…――――――こ…子供を作るってことだろ?」 「……え。」 ――――――――――…いや。それは間違いではない。間違いではないが…。 「こ…子供を作るのにそんなわざわざ出向くことなんかあるのか?」 何故だか少し照れるようにしているルーファウスを前に、ツォンは唖然としていた。 子供。 …いや、確かにそれは間違いではないし、まあ元を正せばその行為の最終地点はそこにあるかもしれない。がしかし、このホテルの利用法としてそれはそぐわないわけで、子供を作るならばそれこそ自宅で頑張って欲しいものである。 何やら一人で想像を膨らませているらしいルーファウスを見ながらツォンは、ともかくこれは修正が必要だ、と思った。ルーファウスがそう考えたのは多分、その行為と子供がイコールになっているからであって、それ以外に目的がないと考えているからである。 しかしどうだ、世間はどうやらそんなに綺麗なわけじゃない。 ツォンはこれをいかにして説明するかという事を考えると、考えた末に例をあげることにした。 「良いですか、ルーファウス様。良く考えて下さい。―――今此処にルーファウス様のすごく好きな方がいるとします。しかしその人には恋人がいます。到底自宅では愛など育むことができません。…そうした場合、そういう場所が必要だと思いませんか?」 「別に」 「……」 …どうやら効果は無いらしい。 しかしその効果ナシは、どうもツォンの考えていたのと少し違う意味での効果ナシであったらしい。それが証拠にルーファウスは憮然としてこう言う。その言葉がツォンを閉口させたのは言うまでもない。 「だって。そいつには恋人がいるんだろう?だったら、最初っからそんな事出来ないじゃないか」 「―――」 ――――――――後悔。 ツォンの中には、一気にそれが押し寄せた。 ああ、そうだ。そうなのだ。そういう所から説明せねばならないことを忘れていた。ルーファウスはどうやらあまりに正当な所しか理解していないようだから、そもそも不義の関係というもの自体を許してはいないのだ。そういう場合、まず相手に恋人がいる時点で関係など持ってはならないことになる。いや、これはまずもって正当な事であって、本来ならばそうでなければならない事なのだから、そのルーファウスの意見を覆そうとしているツォンの方が実際はおかしいのだろう。 しかし…。 「ルーファウス様」 ほとほと困ったような顔をしたツォンは、対峙したルーファウスの顔を見据えて、張りの無い声で語りだした。正当な事を当然だとしているルーファウスには、本当なら語りたくない事を。 「残念ながら、世の中はそう上手く纏まらないものです。他人のものが欲しくなったりする輩もいます。それから…愛情が無くてもそれ相応の事が出来てもしまいます。特に男というのはそういうふうに見られているし、それを武器にしている者もいます。…要するに、性的な欲求を満たす事が、このホテルというものの存在意義なんです」 だから子供がどうのというのとはまた別個なんです、そこまで丁寧に加えると、ツォンはそう言った後に大きな溜息を吐いた。 別にそれは嘘じゃないし、説明として尤もだと自分でも思う。しかしこれを、このルーファウスに語るというのは何だかやはり気が滅入る作業である。最初は相手が上司でその上若くて…そんな部分を気にしていたが、今はもっと別の意味で気が滅入る。 できればこういう本当の所など、話さないでおきたかった。 知らないならば、知らないままでいて欲しかった。 …何となく、そんなことを思う。 だからなのかそうした後は暫く床などに眼を落としてしまったツォンだったが、その後に顔を上げた時、そこにあったルーファウスの顔がそれほど心持の悪いものではなかったことに少しだけ驚いた。だってそんな事実を聞いたら、嫌な気持ちになるものかと思っていたのに。 しかしルーファウスは気丈だった。 そうか、などと納得らしき言葉などを発すると、じゃあ、などと言葉を続ける。 「じゃあ、子供を作るその作業だけなんだな」 「ま、まあ…そういう事かと。…しかし」 「ん?」 「この際、その子供というのは切り離して考えた方が話が早いかと思います。何というか…目的自体がそれというか」 「それ?」 「いえ、ですから。その作業だけが目的―――――に、なったりしなかったり…」 「???」 心痛と言う言葉は何てこの場に相応しいのだろうか、ツォンはそんなことを心の中で思った。先ほどレノやルードとしていた会話の何と楽なことか、そんなふうに思わざるを得ない。何とかして綺麗に誤魔化して話そうとするとどうしても歪む部分があるわけで、それを修正しようとするとこれまた歪んでしまう。 しかし、だったらいっそそのものズバリを言ってしまえば良いのである。少しもフィルタをかけずにそのものズバリを言ってしまえば良い。そうしたらきっと楽に違いない。 しかし何故それが躊躇われるのか――――――その理由を考えると、それこそ心痛がしてしまう。 できれば知らないでいて欲しい、なんて思ってしまう、更にその理由。 「なあ、ツォン」 ある意味では傷心であるツォンのことなど知らず、ルーファウスはそんなふうに声をかけてくる。ツォンがそれに返答を返すと、その後にこんなふうに言葉が続いた。 「なあ、お願いがあるんだ」 「何でしょう?」 また何か心痛のすることを説明せねばならないのだろうか、そう思いながらそう聞いたツォンに返ってきた言葉は。 「連れていってくれ、そこに」 「――――はい!?」 ……更にツォンにダメージを与えたのだった。
通称ラブホテル。 どう考えても観光や社会見学では入りたくないその場所に、ツォンは何故だかルーファウスを案内することになった。 男二人でラブホテル――――――どう考えてもフロントの人は怪しむだろう。 その瞬間に断られるかもしれないと思ったが、幸いにもツォンが足を運んだそこは曇りガラス式になっていてフロントの中にいる人物の顔は見えなかった。そこでルーファウスには声を出さないようにと言っておいたから、まずは浸入成功という具合。 因みにそのホテルは、レノとルードとも話していた、三人一致で一番オススメとしていた例のホテルである。ツォンも何度か客人として此処に来た事があったが、何故かその時は慣れた調子で事を運ぶのは躊躇われて、もう既に知っているのに「ああ、この部屋はこんな設備があるのか」などと感嘆してみせたりした。…何だか空しい。 ともかくそうして選んだ部屋のキーを受け取ったツォンは、ルーファウスを連れてその部屋までを辿った。 ツォンの選んだ部屋は最上階の一番奥の部屋で、かなりシックな感じの部屋だった。此処だけの話、その部屋は今迄利用したことがなく、ツォンは会えてそういう部屋を選んでいた。何しろルーファウスと潜入するのに、過去に来た場所と同じというのは何だか妙な感じがして嫌である。 そうして初めて足を踏み入れたその部屋だったが、どうやらルーファウスにしてみてもそれは悪い感じではなかったらしい。「へえ」だとか感心している。他のホテルに比べれば割と此処は高級だから、俗的な感覚はそこそこ消されている。部屋の広さもかなりのものがあるし、何も説明しなければ一見普通のホテルと変わりない。 しかし、細々見ていけばそこには勿論色々とそれ特有のものがあるわけで、ルーファウスがそれに気付くたびにツォンはその部屋を去りたい気分に襲われた。 何しろ、枕元に用意周到に置かれているティッシュやら避妊具が、現状ではまずもって嫌な感じである。ルーファウスがそれを手で掬い上げて「あ」だとか「ふうん」だとか言っている辺り、相当心痛であることは間違いない。 命を張った任務よりも辛い気分になるのは何故だろうか…。 しかしそこに避妊具が用意されている時点で子供と作りとは別個であることは理解して貰えたらしい。 「本当にそれが目的なんだな」 「はあ…まあ」 そう感想らしき言葉を漏らしたルーファウスに、ツォンはやる気のない声音でそう返す。 実際それが目的でなくとも空間的利用とて可能なわけだが、それを言うとさも混乱しそうなのでそれは避けておく。しかしそうすると全ての話をやはりそれ前提で進めねばならないわけで、それはツォンを落ち込ませた。 「色々サービスがあるんだな」 「はい、まあ…」 「あ、ツォン!見ろ!ゲーム機まであるぞ」 「はい、まあ…」 「すごいなあ」 「はあ…」 ――――――――――あんまり感心されても困る。 しかしともかく初めて見るものに何かしらの感慨を覚えるのは普通なのだから仕方無い、そう思ってツォンは、ルーファウスがあれこれと散策している間をダブルのベットの上で過ごしていた。 そうしてゆっくりと腰を据えてみると、改めてレノとルードのあの態度が恨めしく思えてくる。元はといえばあれはレノが発端で始まった話題なのに、何故此処にいるのがレノではないのか非常に疑問だ。全く、上手い具合に逃げたものだと思う。 そう思った後にルーファウスの方を再度見遣ると、どうやら一通りのものは見終わったらしく、専ら案内書に眼をやっているところだった。 「…満足されましたか?」 ふとそう声をかけると、ルーファウスはそれに眼を落としながらも「うん」などと答える。そう答えた割にはまだスッキリしたという感じではないところが気にかかるが、しかし満足したと口にしたからにはもう帰るろうというふうに口に出すのも楽だった。 だからツォンは、正にそのまま、もう帰りましょうか、と声に出す。 先ほど入ったばかりだからまだ30分も経っていない…とするとあと1時間半ほどはこの部屋にはいられるわけだが、それを真っ当するよりも何よりももう帰りたいというのが本音だった。いや、この部屋から帰りたいというよりもこの話題自体から離れたい。ルーファウスを前にしては。 しかしそのツォンの提案に、ルーファウスは快い返事などは返さなかった。 何やら「ううん…」などと唸りを上げると、ツォンの脇に腰を下ろして、更にはドサリと後ろに倒れこんだ。 ダブルベットの中央で、大の字に仰向けに、なる。 そして。 「……何だかつまんないな」 そんな事を言った。 「凄いけど、それほど凄くない」 「…え?」 「なあ、ツォン。此処にいられるのは、どのくらい?」 「ああ。ええと…あと1時間半ほどですが」 それを聞いたルーファウスは、このホテルの利用が二時間であることを理解して、ますますつまらなそうな顔をする。それを見てツォンは一瞬、もっと詮索でもしたいのかというふうに思ったが、それはどうやら違っていた。 そうではなくて、ルーファウスはもっと別の部分でこの空間をつまらないと言ったのである。 「さっき言ってただろう。それが目的なんだって。でも…こんな狭いところでたった二時間だ。確かにそれでも目的は遂行できるかもしれないけど、何だかそれってつまらないよな」 「つまらない、ですか…」 ツォンにとってみれば、つまるもつまらないも、そういう問題ではない。要するにそういう目的の場所なのだからそれさえ済めば基本的には良いのである。だからそれ以外の目的をこの場所に連れ込むこと自体が本当は間違っているともいえるだろう。 けれどルーファウスは、しきりとつまらないと言う言葉を連発した。 「だって…仮に好きな奴といても、何だか此処にいる時だけ切り取られてる時間みたいだ」 「“切り取られてる”?」 「一緒に居る事が当然なのに、此処にわざと閉じ込めて一緒にいるみたいな…感じ」 「…そう思いますか」 そこまで難しく考えなくともそれほどの意味など無いだろうに、そう思ったが、ツォンは別段反論などしない。ルーファウスのその思いが元々正当なところから続いているものであることを考えれば、説明したこのホテルの存在意義から続く事実よりはそちらに傾倒する方が当然である。 それにしても、そんなふうな考え方があったなんて、すっかり忘れていた。 いわば純愛とでも呼べば良いのか、良くは分からないが、大人になったその社会の中では例えどんな不義であろうとどんな不正なことであろうとそれは黙認されるような事である。例え誰かのものを奪っても、一夜限りの関係でも、金銭の絡むものであろうと、そんなものはありきたりに近いような気がしていた。そういうものを許す部分がどこかに存在していた。本来不正であろうそういった事柄を許すのがこの場所であったかもしれない。 それを逆に言えばルーファウスの言葉になる。 この場所は、正当を崩していく。そういう事だ。 ふと、レノやルードと盛り上がったあの話題を思い出したツォンは、このギャップに思わず苦笑してしまうと、では、と言葉を発する。 「では…ルーファウス様はもう此処に来ては駄目ですよ」 「何で?」 寝転がったままで自分を見詰めているルーファウスに、ツォンはちょっとだけ笑う。そして、言った。 「許せないと思うことは許してはいけません。例えそれが世間的に黙認されたことでも。だからルーファウス様が大切な人と過ごす時は、もっと違う場所で愛を育んで下さい」 きっとルーファウスにはこの場所は似合わない。 レノやルードや自分などは、やっぱりこの先もあんな話題に花を咲かせてしまう事だろうけど、その中に一緒にいることなどこの人には出来ないことだろう。いや、というよりも、一緒にいてはいけないだろう。 誰もが忘れそうになっている正当な方法を、できれば守っていて欲しい。 「では、そろそろ帰りましょうか?」 ツォンはすっと立ち上がると、再度そうして提案をした。もう探索する部分もないし、結局根本的に満足などできないということが分かった今では、もう此処にいる必要性はない。 しかし、そうして立ち上がったツォンに向かって、ルーファウスは未だ寝転がったままでこんな事を言った。 「待て、ツォン。お前も約束しろ」 「え?」 唐突に放たれた言葉に、ツォンは思わずそう聞き返す。 お前も約束をしろ、だなんて…そもそもその、お前“も”、というのは何だろうか。 思わず首を傾げたツォンだったが、次の瞬間には傾げた首も固まってしまった。 「お前ももう此処には来ちゃ駄目だからな!」 「ええっ!?」 ―――――――――何故!?
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