◆楔◆

 

 

 

それは少し曇り空の日だった。

龍神の神子としての役目を終えた花梨は、京に残ることを決意した。

それは、この短い期間に唐突に心を奪われた男への、その想いの結果だった。

かつては地の白虎として戦いを共にした人―――――翡翠だった。

 

龍神の元、空高くから舞い降りた花梨を受け止めた彼は、至極満足そうな、

そして安堵した表情を浮かべていた。

それが花梨の胸に焼きついたまま、離れなかった。

 

本格的な京での暮らしを始めるにあたって、紫姫は惜しみなく数々のものを花梨に与えた。

元々、伊予の国の人間である翡翠は、

「伊予に行こう、花梨」

と申し出たが、それは当人ではなく、紫姫に呆気無く遮られる結果となった。

紫姫曰く、今迄お世話させて頂いてきたのですから、これからもお世話をさせて下さいませ、らしい。

翡翠と共にいることを考えたら、それは苦しい生活のようにも思えたが、

それでも花梨には、その言葉に断りを入れることができなかった。

結果、花梨は京に住まうことになった。

 

 

 

「花梨、残念な話がある」

そう翡翠が言い出したのは、京に腰を据えて数日経った日の事だった。

花梨は、「龍神の神子の役目を終えたのだから、これからは名前で呼んで欲しい」と八葉の面々に申し出ていた。

それは裏切られること無く浸透している。

「何?」

残念な話と聞いて、花梨は顔を曇らせた。翡翠は表情を曇らせることなど滅多に無いので、それはさぞ重要なことなのだろうと思う。

「私が伊予の国の人間なのはわかっているね?」

「うん。海賊でしょう?」

ああ、そんな呼び名もあったね、などと言いながら翡翠は少し笑った。

しかし直ぐに真面目な面持ちになり、

「守るものというとまた違うが…仲間がいる。花梨のことは勿論、大事だよ。だが、私が京に留まることは不可能なのだよ」

「…うん」

それは、翡翠の誘いを断った時から分かりきっていたことだった。

「私は、明日から伊予に戻らなければならない」

「えっ!明日?」

花梨は急な話に驚きの声を上げた。しかし、良く考えれば今まで翡翠が京にいてくれただけでも、それは感謝すべきことなのかもしれない。

「翡翠さん、いつ帰って…じゃないですね。今度はいつ京に?」

常なる場所が京でないことを考えて、言葉を直す。

「解らないね。だけど、君の為になるべくは早く、此処に戻ることにするよ」

「うん、ありがとう」

自分を全く責める様子のない花梨を見ていると、翡翠は嬉しくもあり、また悲しくもあった。

この小さな姫君の側にいたい。

ずっと守っていたい。

けれどそうする為には、今迄の自分を全て崩していかなければならないと解っていた。

そしてそれは、最大の決断だった。

押し黙ったままの翡翠に戸惑った花梨は、どうにか明るい雰囲気にしようと話題を変えた。

「ねえ、翡翠さん。今度来るときは、お土産忘れないでねっ!」

「土産?」

「そうそう!伊予の国の美味しいものとか…何でも良いの!そしたら、少しでも伊予の事が解るかもっ」

そう言って花梨はにっこりと笑う。

ああ、と翡翠は答え、そしてその小さな体をふいに抱き寄せた。

「えっ」

戦いが終わってからは何だかんだと忙しく、逢瀬は欠かさなかったものの、こうして触れ合うことは無かった。

「翡翠さん…」

鼓動が高まるのが分かる。今迄は主従の関係といっても良いものだったが、今は、違う。

もう何が起こってもおかしくないんだ…、そう花梨は思っていた。

「花梨、少しの辛抱だよ?」

その手で花梨の頬に触れると、翡翠は慣れた様子でその唇を捕らえた。

こんな時、手馴れた雰囲気が無意識に出てしまうのは花梨に対して失礼な気がした。

だが、それは仕方ない。長い生活で身についてしまったものは消すのが難しい。

長い、触れるだけの口付けだったが、花梨がきつく目を閉じていることに気付き、翡翠は優しく微笑んだ。

「これから少しづつ、色んなことを教えてあげるから」

「えっ…う、うん」

唇を重ねることですら初めてだった花梨にとっては、その言葉が妙な誘いのように聞こえた。

いつかはこんな日がくる。そんなふうには思っていたけれど。

その態度は直ぐに翡翠に伝わっていく。目前で身を堅くする花梨を見ていると、無償に愛しさが溢れてくる。

本当ならば今此処で、めちゃくちゃに彼女を抱いてしまいたかった。翡翠には時間が無い。この夜が最後である。

例えまたすぐに京に戻るとしても、数日会えないことは確実なのだ。

そう思った。だが。

「待っていてくれるね?」

そう言葉をかけると、再び花梨を包む。彼女の衣に手をかけることなど簡単なことだったが、それを敢えてしなかった。

大切すぎて、容易に手短に、という無粋なことなど、したくはなかった。

大切、すぎて。

 

 

 

あれから一ヶ月は経ったろう。

花梨は日が落ちてゆく京の空を眺めながら、そう思った。

「どうしてるのかなあ…翡翠さん」

どれだけこの言葉を口にしたか分からない。なるべく早く戻ると言った翡翠の言葉に、最初は、今日か今日かとドキドキしたものだったが、

今やそれは無くなってしまった。

大好きな人と一緒にいるために京に残ったというのに、これでは全く意味が無い。

そう思うと、多少の苛立ちすら覚えた。せめて携帯電話でもあって声だけでも聴ければいいのになあ、と

改めて自分のいた時代の便利さに気付く。

「明日には、戻ってくるかな…」

翡翠に会いたい。会って、文句の一つでも言ってやりたい。

勿論、翡翠の事情があることは解っているし、伊予に行くのを断ったのも花梨自身なのだから、それが我侭なのは解っている。

でも。

「寂しいよ…」

何より、寂しい。

他の八葉達とは時々話したりはするけれど、やはり生活が忙しいらしく、以前のように常日頃から会えるものでもない。

しかも花梨は今や、翡翠の妻、という認識をされている。彼らが遠慮するのも当然だった。

けれど、花梨の行き場の無い心はもう既に限界だった。

その心は、少しづつ均衡を崩していた。

 

その胸は、安堵感をもたらした。

違う、本当に求めている場所は此処ではない。そう分かっているのに、どうしようもなかった。

「ごめんなさい」

その胸にそう呟く花梨は、まだあどけない少女で、その少女にこんな決断をさせてしまう男が理解できない。

「謝る必要はございません」

そう答えながら、今は別の男のものとなった、かつての主を包み込む。

その姿は、天の青龍―――――源頼忠のものだった。

頼忠は考えていた。

この行為が翡翠を裏切るものであることや、その実自分の願望であったこと。

龍神の神子である花梨を主とし、それに忠誠を誓ってきた頼忠の想いは、状況が変わった今も薄れることは無かった。

最終的に花梨が選んだ道は、翡翠。それは仕方無いことだと思っていたし、その決断に不満を抱くことも無かった。

誰の胸であっても、花梨が笑顔でいられる場所がそこにあるのなら、それは頼忠が望むところであった。

けれど…どうだろう、この状況は。

幸せでなければならないはずの女性は、今、自分の胸に顔を埋めて今にも泣きそうな面持ちでいる。

本来ならば選ぶことの無かった、自分の胸で。

それが意味することを、頼忠は十分理解していた。

「花梨殿の気がすむのなら、いくらでも頼忠を側に置いて下さい」

一際優しく響いたその声は、花梨の心を和らげた。一時の、仮初の想いでも良い。

それでも良いから、寂しい気持ちから離れたかった。

それは翡翠への想いの強さの裏返しであったが、それを考えられるほどの余裕は、今の花梨には無い。

「頼忠さんは優しいですね」

「そんな事は。翡翠殿も優しいのではありませんか?」

「そう…なんだけど。今は分からない。もしかしたら、もう帰ってこないかもしれない…」

寂しげに微笑んでそんな言葉を漏らす。そういえば、と頼忠も思う。

いつか翡翠は言っていた。それはまだ仲間であった頃の話だが、京に留まる気は毛頭無いと、そう言っていた事があった。

花梨がいるのだから、まさか今もそう考えているわけでもあるまいと思ってはいるが、

いかんせん当の花梨がこの様子である。信じろといわれても猜疑心が強まってしまうのが正直なところだった。

もし…もし万が一にも翡翠が帰らなければ、この人はどうなることだろうと頼忠は思う。

それでも翡翠への想いを抱えたままであろう事は容易に予想がつく。

自分を呼び、警戒もせずに胸を預けてしまう―――――そんな所まで追い詰めたのもまた、翡翠だというのに。

少なからず、頼忠は憤りを感じた。

「花梨殿。大丈夫です。きっと翡翠は帰ってきます。それまで、もしお辛いというのなら…」

言葉を切って、頼忠は花梨を見詰めた。

「…お辛いなら。私をどうぞお呼び下さい。翡翠のようには参りませんが、私は私なりの方法で、貴方の寂しさを和らげましょう」

「頼忠さん…ありがとう」

見上げた頼忠の顔に笑顔を送りながら、花梨は心からそう返した。

それは頼忠にとって、裏切りの言葉だった。

そして、花梨にとってもそれは、理性を崩す言葉だった。

 途切れ途切れの会話の間に、夜はすっかり浸透した様子だった。隙間から流れ込んでくる風が、部屋に冷気を溜める。

 花梨はその温度差に、自然と頼忠の裾を掴んだ。

「涼しくなって参りましたね。如何致しますか。今日はこれで失礼したほうが宜しいでしょうか。それとも…」

「帰っちゃうの、頼忠さん?」

急に寂しさが蘇るような気がして、花梨はしがみついた。

「我侭なのは分かってます!でも…でも、もう少し、一緒にいて貰えませんか?」

 懇願するような目が、頼忠を捕らえる。

「花梨殿がそう望まれるなら、いつまでもお側に」

 そんな言葉を口にしながら、危険だと頼忠は思った。

 最大の理性と共に、今の自分はこの言葉を放っている。それは、ともすればあっさりと崩れてしまいそうで、頼忠は怖かった。

しかしそう恐れる一方で、いっそ壊してしまえばいい、という気もしていた。

そう、翡翠が帰ってくればこの人は、もう触れることも叶わない存在になる。

「花梨殿、教えてください」

頼忠は、考えてそう言葉を発した。

「何?」

「貴女が望んでいることは何ですか。側にいるだけの友でしょうか、それとも翡翠の身代わり?」

「何で…そんなことっ…!」

核心をついた言葉を放たれ、花梨は反論した。けれど、言葉は続かない。

翡翠の身代わり―――そうなのかもしれない。もし側にいるだけで良いというならば、紫であろうとも良いはずなのだ。

それでも、選んだのは、此処に呼んだのは、頼忠だった。

「教えてください。私は貴女が望めば、翡翠の代わりにでも何でもなりましょう」

「そんな。そんな事言わないで」

「何故です。翡翠と会いたいのでしょう?私なら貴女に温もりを与えられる。今、貴女の目の前にいるのは誰でもない、私です」

「そんな…」

頼忠の声は冷静だったが、花梨を追い詰めるのには十分なものだった。

その言葉を受けながら、花梨は翡翠の笑顔を思い出していた。

『待っていてくれるね?』

そう言ったきり戻らない翡翠。会いたいのに会えなくて、触れたくても触れられない。

どういう訳か、涙が溜まった。

寂しいのは勿論だったが、もしかするとそれは罪悪感だったのかもしれない。

花梨は、涙で潤んだ目のまま、頼忠の首に絡みついた。

「翡翠さんに、会いたい…」

花梨の温度に触れながら、頼忠は微笑んだ。

「そうです、今は私を翡翠だと思えば良いのです」

 

 

 

 

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