座標軸

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座標軸は何かを分断するように常に垂直に十字を描く。

縦に分断するY軸が何らかのレベルを表すならば、横に分断するX軸は何を?

例えばその身に纏う―――――――――――罪業、では?

 

 

 

いつも通り片付けられたデスクで、一本煙草に火を点ける。

隣のデスクに置かれた新型のパソコンが少々気になったが、自律神経失調気味のその体の安定を図るには致し方無い。仕方無いから空気清浄機をオンにして稼働させたが、長年使い込まれているそれの機能性は疑わしかったし、更には容赦無く立てられる轟音は返って気分が害するようだった。

片付けられているデスクの上にぺらりと置かれた一枚の紙。

上半期の功績がどうのと報告がなされたその紙には、一つ大きな座標が描かれていた。

縦を担うは純利益、横を担うは実施項目。

それは折線グラフで示されており、Y軸のかなり高い位置で波を作っていた。

こういうグラフには得てして自分の仕事内容は書かれる事がない、それを見てそう思っていたツォンは暫くそれを凝視した後に、ぱさり、とそれを隣のデスクに追いやる。

愛社精神などという言葉には縁がない自分が見ても、それはあまりにも意味がない。

とはいえその内容を肝に命じなければならぬ立場である事は確かだし、意味が無いなどと口にしようものなら大変な事になるのは分かっていたが。

煙草の火が、もくもくと視界を遮る。

一瞬その煙が目に入り痛みが走ると、ツォンは俄か目を瞑った。

涙が出そうである。

じん、と響く痛み。

そうして目を瞑っていると、どうやら何かが目蓋の裏に浮かび、ツォンの脳裏を刺激した。その刺激は他でもない記憶の引き出しという刺激で、その引き出された記憶は目蓋の裏に記憶通りの物を形どっていく。

 

――――――――ああ……これは。

忘れもしない、過去。

 

狭くて煩いあの空間。

それでも何か大きなものをもたらし、今の自分を形成したその空間。

忘れもしない、座標軸―――――。

 

 

 

XXX」

名前を呼ばれ、ツォンは振り返った。

町外れ、比較的自然が多い土地。

その中に木造三階建ての飾り気無い建物がぽつんと一つ建っている。

煤けた看板がその前に申し訳程度に立っていたが、それも最早見えない程に汚れており、一体何の建物であるかすら判別できない。しかしそれでもその建物が一般の民家でない事だけは確かであり、それは例え看板が煤けていても誰しもが理解できるところである。

その判別材料こそが、屋根から突き出た煙突だった。

その煙突は大きな筒状になっており、空高く聳え立っている。しかもその数は一つなどではなく、4、5本が連なっているという状態。

その煙突は日々もくもくと煙を上げては悪臭をばら撒いており、それこそがこの建物が民家ではない所以、そして郊外にある所以であった。

その筒型の連携煙突の建物の正式名称は人々の間からもう既に消え去っており、その建物に働く人間すらももうそれを口にする事は無い。ただ、別称で“箱”と呼ばれていただけで。

「何でしょう?」

ツォンは呼び掛けられた事にそう答えると、20代半ばのその男を見据えた。

その男は穏やかそうな面持ちをした言わば好青年である。

この好青年がこの“箱”の責任者であることは周囲にはまだ知られていないが、しかし建物の中ではもう既にしっかりとした認識の上に上下関係があった。

この男が責任者になったのはつい数日前。

それは前任の責任者の死によっての繰り上がりに他ならず、だから本来ならすぐにその上下関係が出来上がるのはおかしなことだった。それでも尚それが出来上がっていたのは、ひとえにこの男が信頼と尊敬を得るに相応しい素質を持っていたからだろう。

XXX、今日の仕事はこれで終わりだ。上がって良い」

そう言われ時計をすっと見遣ると、それは午後三時を差していた。

外では暑苦しくも夏の虫が咽び泣いており、その声と、時計が示す時刻と、体が得る温度とを感じながらツォンは、すいと男の方を見た。

生温い気温はじっとりと嫌なものを浮き立たせ、ツォンの首筋に一筋の汗をもたらす。それがシャツの中へすっと滴り落ちていくのを感じながらもツォンは一言こう口にした。

「嫌な匂いですね」

そう言うツォンの視界には、見えるはずもない筒型連携煙突の煙が映る。

あの煙は悪臭を放ちこの建物の中にさえ蔓延しているのだが、常にその中にいるとどうも鼻が馬鹿になり何も感じなくなるらしい。だから目前の男はそれについて何も口にしない。

だがツォンにははっきりと感じられたのだ、その悪臭が。

「仕方ない、こういう仕事だからな」

言葉通りの表情を向けたその男に、ツォンは無感動にそうですね、と告げた。

そしてそれから、

「もしこれで仕事が終わりなら、一緒にどこか寄りませんか?」

そう誘う。

若輩、しかも17、8の少年にそう言われた事に対し男は少々躊躇った様子だったが、しかしすぐにも優しい笑みを見せると、ああ、そうだな、などと口にした。

その快い返事に、ツォンは笑顔を返す。

「じゃあ支度をしましょうか」

そう言ったツォンの首筋には新たな汗が流れる。

それは、心臓を覆う胸へと、つう、と流れていった。

 

好青年の名はリーブと言った。

彼がこの偏狭の地にやってきたのは前責任者があの建物で“ある仕事”を始めたすぐの頃の話で、それは前任からの呼び寄せという形のものであった。前任の男とリーブはかねてからの知り合いで、それ故に共に仕事をしようかと、そんなふうになったのである。

二人きりの職場にツォンを含む数人がやってきたのはその後の話で、それは実のところリーブの提案だった。二人きりでは心許ないと増員を提案したリーブは、その提案がすぐには受け入れられないものと重々承知であり、だから渋々男がそれを了承した時にはホッとしたものである。

何故、二人だけでは心許なかったか?

それを考えると今でもリーブは旨く言葉を紡ぐことができない。

ただ行き着くところは自分の脱却だと言う事だけは何となく感じていた。しかしその願いである提案が受け入れられた今でも、こうした自分をヘッドとした状況というのはリーブに安心感など与えなかった。

町の中央に出ると、軒並みが見える。

昼を食う場所にすら困るあの建物からおおよそ2キロは離れているだろうそこは、いつも活気に溢れていた。その活気ある町並みの中に一軒、赤い屋根の建物があり、二人はそこに腰を落ち着かせる。

「悪臭、消えましたね」

簡素に珈琲二つを頼んだ後、ツォンは改めてリーブを向き直りそんなことを口にした。

それは無論、あの筒型連携煙突から昇る煙が放つ悪臭の事であったが、こう距離が離れていてはその悪臭など届かないのは当然の話である。それを知りつつ敢えて第一声にそれを選んだツォンに、リーブもまた敢えてこのような言葉を返す。

「そうだな」

「この蒸し暑い中だと、あの悪臭は殺人的ですよね」

「ああ」

リーブの答えはあくまで淡々としている。それはまるで聞き流しているかのように。

しかしツォンはそれでも構わないかのように言葉を口にし続けた。それはあまり雰囲気の良い話題では無く、実際リーブは困ったように笑ったものである。

その話題とは―――――――――前任の話。

前任の男はリーブをこの土地に連れてきた張本人であり、だから彼の死はリーブにとって小さな衝撃とはいかなかった。その上その男が自分の知人の内でリーブを選んだ事には少々意味があったのだからそれはひとしおである。

彼は、遺書であるかのように一筆を残してこの世を去った。

その一筆はあまりにも簡素で、その内容が何かといえば“この建物を頼む”というそんなものである。

そんな簡素なメッセージを残した彼の、その死を発見したのは……ツォンだった。

リーブは彼の死をこのツォンから聞いたに過ぎず、実際のその男の最期というものを知らない。ただツォンの報告によれば、その人の最期の姿は酷い有様でとても尋常ではなかったのだという。だからツォンは、その死骸を即座に処理したのだと言った。

誰かの目に触れたなら、大きな波紋とショックは免れられないだろうと踏んだから…だからこそ、即座に。

そういった経緯で明確な死の情報を得ていなかったリーブは、それだからといってそれについての詳細をツォンに問いただすことは無かった。旧知の友の死を受け入れるにはあまりにも希薄と言える、そんなリアクションしか取らなかったのである。

しかしそれは別段、悲しみや重さが無いという意味では無かった。そうではなく、ただ目前にある事実を受けとめる他無いから、だからこそそれしかしなかっただけの話で、悲しみというものが微塵も存在していないという訳ではない。

しかし何よりリーブにとって辛ったのは、その建物のその後についてを任されたという事実だった。直筆のメッセージを目にしたリーブはその瞬間から「悲しみや重み」を「責任」へと転化させねばならなかったから。

「顔、疲れてますね」

ふいにツォンはそんなことを言った。

言われたリーブは疲れているらしい顔を歪ませて笑うと、

「そうかもしれない」

と、曖昧な言葉を返す。

その何でもないようなツォンの言葉は、ある話題に入らんとする契機に過ぎなかったが、どうやらリーブはそれにさえ気付いていないらしい。しかしツォンは、ともすれば直ぐに逸れてしまいそうな話題を着実に自分の思う方向へと進ませた。

「リーブさんにそんな疲れた顔をさせるのは…あの人ですね」

「え?」

「死人、ですよ」

「……」

ツォンの指す死人とは、他ならない―――――あの前任の、男。

「死んでもリーブさんに迷惑かけるなんて、あの人はとんだ人だ」

悪怯れもせずそう口にするツォンに、さすがのリーブも制裁を加える。

XXX、言葉が過ぎるぞ」

その言葉は、立場や人間的モラルから来た言葉であって個人的な意味合いから来たものではない。実際リーブと前任の男の関係を考えれば個人的な感情から出てもおかしくない制裁であるのに、リーブはそれをしないのだ。

そういうことについてツォンは、少なからず納得のできない感を持っていた。とはいってもそれは、個人的な感情や視点であの男についてを語って欲しいなどという事ではない。ただ、そうして世間的な正当性でもって優等生を見せるリーブが、何だか許せなかったのである。優等生な態度であの前任に付き従う姿が…許せなかったのである。

いつも、そう。リーブはいつもそうだった。

ツォンの仲間が失態を犯した時、前任がクビを宣言したのにも関わらずそれを止めたように。前任がリーブに責任を与えた時にも嫌な顔一つせずそれを受け入れたように。

いつだって優等なその人は、自分ではなく世間と他人とを基準にして善し悪しを判断し、肯定と拒否の判断をしてきたのだ。

そんなリーブはツォンにとって「最も人間らしからぬ人間」だった。

感情の在処も分からない、いわば善人。

「前から聞きたかったんですけど、リーブさんは何であの人と仕事を始めたんです?」

「何だ、急に。そんな事に興味が湧くか?」

「はい、湧きます」

臆することなくそう言ったツォンに、リーブは苦笑した。

何故なら、似ていたから。

直球を投げるこの態度は、似ている。

そう…かの男も、そういう直球を投げかける男だったように。

 

 

 

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