>>> 凶器ニカエテ...

 

 

「何だか何もしたくないんだ」
 そう言った彼に、俺は「そうか」と答える。そりゃそうだろう。だって俺はその理由を知ってる。
 俺の側から離れて行こうとする人を、俺は許せなかった。
 いいや、許せなかったんじゃないのかもしれない。
 俺は、その人に俺自身を選んで欲しかったんだ。
「ねえ、でも寂しくはないよな?…だって、俺がいる」
 寂しいなんて言わせない。
 だっていつでも俺は此処にいて、俺は彼を見ていて、それだけで良いとさえ思っているんだ。
 それ以上に望むものなんてあるか?
 あるなんて、言って欲しくないよ。

 無いって、言って------------?

 彼がアレが欲しいといえば俺はそれをすぐに購入して彼に届けた。
 彼が珍しく何かをしたいと言えば、俺は絶対にその希望を叶えた。
 その代わり、だから俺の側から離れないように、それだけを俺は注意していた。
 その日も俺は、彼が欲しいといった本を購入する為にでかけた。その間の彼の様子はといえば静かそのものといっても良いだろう。何故って俺は、彼がどこかに行ってしまわないように、俺が出かける間は必ず足枷を嵌め、手首同士を縛り付けていたから。
 もし彼がどこかに行ってしまったなら俺は、多分、発狂してしまう。
 ただ、彼がそこにいれば良い。たったそれだけの事なんだ。

 

 俺が彼の希望した本を買って帰った時、俺は思わず目を見開いた。
 何故って、そこには----------……。
「ヴィン…ヴィンセント!?」
 俺は思わず手にしていた本をスルリと落とした。
 そこは、もぬけの殻だった。
 誰もいない。いや、誰も、じゃない。彼がいない。
 ヴィンセントがいない。
 俺は焦った。
 どこに逃げてしまったんだ!?
 どこに行ってしまったんだ!?
 俺を置いて。
「ヴィンセント!ヴィンセント!」
 俺はとにかく声が枯れるまで叫び続けた。どこかにいるのかもしれない、そう思うと自然と声も大きくなる。
 だけど、勿論、返事は無い。
 気配すらない。

 どこかに、行ってしまったのか-------?

 俺を、置いて?

 俺は、置いていかれたのか?

 俺は途端に不安になった。今までずっと一緒だったんだ。今まで彼がいたから俺は生きがいを持てたんだ。彼がそこにいた事が生きがいだったんだ。
 いつか離れていく、そんな予感の中で不安になりながらも生きるのが俺の生きがいだった。

 駄目だ、いなくなっちゃ…駄目だ、駄目だ、駄目だ-------!!

 俺は床を這いつくばった。
 誰かが見たらさぞ滑稽と思うだろう姿で、俺はヴィンセントを探し続けた。
 さっき買ってきた本など、もうどうでも良かった。
 足枷を嵌め、手首を縛っておいたはずなのに、それでもいなくなってしまった彼の存在の方がよほど大切だった。
「ヴィンセント…っ、ヴィンセント……っ!!」
 陽が暮れようと、月が出ようと、俺には関係ないことだった。
 ただ、ひたすら探す。
 だって彼がいなかったら俺は、発狂してしまうんだ。

「ヴィン…セ、ント……!」

 ヴィンセント、どこにも行かないで-----------------……。

 

 

 ガラス越しに見るその姿は、ある意味、滑稽だったかもしれない。部屋のように見える作りの実験室の中で、這うようにして呻き声を上げるその彼の姿は。
 何かを必死に探し、その為に羞恥さえも捨て去ってしまう彼。
 誰が彼を責められるだろうか。
 そんな事は、できやしない。
「これが結果ですが?」
 そう静かに言われて、ヴィンセントは「ああ」と静かに答えた。
「結果を見ても分かるように、彼の正常はもう生きていない」
「ああ」
「はっきり申し上げて、もう彼は戻りません」
「----------」
 恐れていた事だった。多分、そうなることを恐れていたのだと思う。
 そう思いながらヴィンセントは、ガラスに手をそっと添えた。

 今、このガラスの向こうには、実験室がある。その実験室は、まるで普通の家の、普通の部屋のように作られているが、ドアを開ければその外はすぐに真っ白な壁になっていた。

「クラウド-------」

 彼は、クラウド。
 ずっと想い合っていた。
 とても幸せだと思えるような生活を送っていた。
 けれど彼はその生活の中で、正常な心を失ってしまったのである。
 そうして、とうとう幻覚を見るようになった。
 そこにヴィンセントがいて、自分はそれを支配しているという幻覚である。勿論、クラウドは実験中にその部屋を一歩もでていない。だから、彼はずっとその部屋の中で自作自演のような行為を続けていたのだ。
 勿論、一人で-------------。

「私が、いけなかったのだろうか…」

 あまりにも想い過ぎていた。想い過ぎたそれは、もしかしたらクラウドには負担だったのかもしれない。それがこんなふうに歪んでしまったのだろう。
「…すまない」
 きっと許されやしないのだ。人一人の正常な意識を破壊しておいて、それはできない。
 だから--------。
「お前の側にいよう…ずっと」
 きっとクラウドはこの実験室から出ることを許されない。外に出たとしても、正常な生活ができない。だから、せめてそんなクラウドを見守っていなければ、とそう思うのだ。
 責任は自分にある。そうしてこの心を責め続ける。
 そして、此処で見守りながら、自分は生きていこう。

 それだけが、償いだろう……。

 

 

 

 パタン、とドアを閉めて、男は溜息を一つ吐いた。
 この実験室を有する男である。
 男は、精神異常を担当する医者であった。彼は溜息をつきながら、彼の部屋までを辿っていくと、その中でそっと椅子にすわって目を閉じた。
 そこに、看護婦がやってきて、先生、と呼ぶ。
「あの患者さん、大丈夫なんですか」
「ああ…」
 実験室は、2つある。
 そのそれぞれに、患者がいる。
「どちらも重症だな。もう正常な域ではない」
「そうですか…」
 そう、重症だと思う。

 2つの実験室には、それぞれ1人づつが入っているが、それは仕切られていて見えはしないのである。完璧に区切られ、密閉された部屋なのである。

「金髪の彼は、完全に妄想症だ。そこにいない人の幻覚を見ながら、自分をその人を支配していると思い切っている」

「黒髪の彼もまた違った意味で危険だ。ただの壁を見ながら、そこをガラスと思い、その先に何かが見えているらしい。そして自分を責め続けている」

 看護婦は眉を顰めて医者にこう尋ねる。
「それってどういう原因なんですか。二人はその…恋人だったんでしょう?」
「ああ、そうらしい」
 それなのに、お互いが狂気に陥る。そしてお互いの幻覚を見る。そこには勿論、相手はいないのにである。それは何故か-------その、原因は。

「原因は、極度の不安じゃないかと思う」

 医者はそう言って、デスクの上の冷め切った珈琲の残りを飲み干す。しかしその言葉に看護婦は首をかしげた。
 不安が原因…?
 しかし医者は何も答えなかった。

 

 時として、あまりに想い過ぎて、人は不安になる。
 ちょっとした事で、相手の身に何かが起こったのではないか、と。
 そして、思うのだ。

 側に、いつでも側にいないと、危険だ--------そんなふうに。

 そして、それは極度に精神をすり減らし、やがて狂気を生む。

 

 例えばそう。

 彼がいなければ、生きられない。彼の側にずっと、いよう。…そんな具合に。

 そしてそれは、幻覚を見せ、それが現実へと摩り替わる。

 崩壊への、道。

 

 

「狂気は、凶器に姿をかえる」
 医者はそう言うと、そっと目を閉じた。

 

 

  

狂気ヲ凶器ニカエテ...

 END

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