旧友と魚

暫く東京で働いていた旧友が、長い長い勤務に終止符を打って田舎に帰ってきた。なんでもクビになったんだという。クビとはいっても、勿論救済処置はあったのだ。ところが彼はそれを断った。だからクビというニュアンスに限りなく近い感があるもののそれは自主退社ということになるのだろう。

「それで君、これからどうするんだい」

「暫くのんびりするさ」

彼は健やかな顔をしてそう言った。
それでは暫く仕事をするつもりもないのか。一体全体生活はどうするつもりなのか。他人事ではあるけれども僕はそんなことが気にかかっていた。

「いやね、実は働き口はあるんだよ。そこで少しばかり金を稼ぎながらすこし勉強でもしようかと思っているのさ」

「へえ、勉強をかい。それはどういう?」

「まあ芸術さ」

「芸術かい。しかし君、それを学んでいつかはそんな仕事に就くのかい」

「それは分からんよ。だがね、今しか時間はないさ。君だってもう少し時間について考えた方がよかないかい。こんな田舎で鬱々とずっと過ごすつもりかね」

「僕のことはどうでも良いさ」

彼は仕事を辞めたばかりだというのに既に色々なスケジュールに囲まれているらしかった。それが証拠に、僕の目の前でスケジュール帳を開き、それをじいっと眺めている。びっしり字の詰まったスケジュールは彼の忙しいことを物語っていた。

「実は今度、陶芸の集まりがあってね、それに行くのだよ。陶芸に造詣が深い友人が出来てね。ああ、それから画家という人が友達にできたもので、その展覧会とやらを見に東京にまで戻らなければならないのだよ。全く忙しいねえ」

「そうかい。それは何よりだよ」

僕は彼に笑ってそう言い、彼は僕に、君ももっと色々やっておいた方が良いぞとアドバイスをした。彼の手にはスケジュール帳があったけれども、僕の手にあるのは確かに、広告の紙を千切って作った、日付も何も書かれていないメモ帳だった。

彼と別れた後、僕の胸には急激に切なさが襲った。

涙がついと出てしまいそうだったので、上を向いてぐじっと鼻をすすった。こんなところで泣いてたまるか。そんな気持ちもあった。しかしその反面、旧友に対してそんな気持ちを抱く自分に嫌気もさしていた。

陶芸はかつての僕の憧れだった。
そしてまた、絵画は僕の夢そのものだった。

僕のその憧れや夢を承知していた彼は、しかしその時分にはまるでそれに興味を示さなかったのである。それであるのに数年ぶりに再会してみれば彼はまるきり変わっていて、まるで僕の興味をそっくりそのまま手にいれたようだった。

かつて僕は、興味がなかった彼に、少しばかり得意になってそれらの話をしたものである。しかし彼はそれでも興味を示さず、かつての彼の興味の対象であった何がしかに夢中だった。

しかしこれはどういったことだろうか。

彼はすっかり僕がそれらに対して憧れていたことや夢に思っていたことなど忘れているじゃあないか。まるで陶芸や絵画といったそれらのものを、初めて僕らの間に連れ込んだのは自分だといわんばかりだ。

正直僕は面白くなかった。当然だ。

しかし僕はそう思う僕自身のことも嫌だった。そして恐らくこれからもずっとそんな気持ちを抱かねばならないだろうことも嫌だった。

 

家に帰る途中、魚屋の前を通り過ぎたとき、僕の目に立派な魚が二匹入り込んだ。一匹は若い女性が買い、もう一匹はそのまま残っている。魚屋の親父は時計に目をやって、それから何か決心したようにその残った魚を手にとった。

「おい、それをどうするんだい」

「ふつうにしてても売れないもんだからぶつ切りにして売るのさ。もう時間も時間だし売り切りたいからね」

「ははあ、そうか。ではバラバラにしちまうんだ」

「そうだよ」

魚屋の親父はぶつ切りにしてさっきの魚を店頭に並べる。これで売れるのか。何人かが通りすぎたけれどもバラバラの魚はとんと売れる気配が無い。

ああ、まるで僕のようだな。

中身なんて大して変わりゃしなくても、どっちかが選ばれてどっちかが見捨てられるように世の中は出来ているらしい。

「親父さん。それを貰うよ」

「買うのかい。だったらさっき言ってくれれば良かったのに」

「いや。今の姿の方が良いよ」

ばらばらでちぐはぐでそうしようもない姿の方が似合っているだろうさ。恐らくそうだと僕は思う。

この魚だって、きっといろんな夢を見ていただろうに。それがうっかり捕まって、更に悪いことには仲間にすっかり追い越されてしまうのだから世の中はやりきれないことばかりだ。

僕はばらばらの魚を手にしながら家に帰る。先に売れていったバラバラじゃないあの魚に猛毒があることを願いながら。

END

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